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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「闇から光へ」


聖書 エペソ人への手紙5章8~14節

Ⅰ. ふたつの生き方(節)

 1.  闇の中でうごめく

聖書は神と人との出会いに満ちています。初めに造られたアダムとエバ。その出会いはエデンの園でした。天と地のすべてが非常に良いものとして造られたその最後、創造の冠として人は登場します。「生めよ。増えよ。地に満ちよ」(創世記1:28)と大いなる祝福と使命を受けて始まった出会い。エデンの園ではすべての実がなった状態で置かれ、そこを耕し、守り、収穫を感謝し、神を礼拝して生きる道を示されました。ただ、園の中央の木からだけは食べてはならない=神がすべてを支配しておられることを覚えよとの言葉を聞きはしましたが、従うことができず堕落します。その後、神と人は木の間に身を隠したところで出会います(創世記3:8)。光の中で創造され神を喜び、何も隠す必要のなかった舞台から転落し、神に見られることを恐れ、人は互いに隠し合い、疑ったり恐れたりしながら生きるようになりました。


今朝の個所でもそのことを「闇」(5:8)と記しています。ただし「あなたがたは以前は闇でした」とあるように、「以前は闇=闇とは過去のもの」と教えています。神は、堕落した人ともう一度出会ってくださるお方です。しかも、こちらから頼み込んで会ってもらうのではなく、神の側から闇の中にいる人間を捜し、救い出そうと願っておられるお方です。


この「闇」は個人的なものと社会的(世界)との両方で知ることもできます。

「個人的な闇」は「ひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです」(5:12)と続けられているように、私たちそれぞれの胸の内にあるごみ溜めのような汚い思いがうごめいている現実です。だれもこのうごめく闇、罪から自由な人はおりません。表情では笑っていても奥側で無理をしている、平静を保ってはいても内側では怒りに震えている、関心を寄せているようで本当のところは早く身を引きたい・・・それらはうまく隠せていたとしても「実を結ばない暗闇のわざ」(5:11)です。言動や表情に表れていなくても、隠したい動機や釣り合わない心を抱えているのでよきわざにはなりません。あなたが無理をしていれば、かならず相手にも伝わります。相手が無理をしていれば、あなたもそれに気づくでしょう。そうして闇の部分を抱えつつも、それを解決できない、重荷をおろせない、どうしようもないわだかまりや重たさをもって過ごすのが「闇」です。そして「闇」なので多少のことは隠せてしまう、明らかにされては困ることを放置して過ごすことができます。

「社会的な闇」もあります。この世界は、神よりも悪の力の方が大きいのではないかと思わせる現実や歴史に満ちています。値上げや増税で苦しみなんとか生活を工夫しながら生きている一方、二世議員、世襲議員は何食わぬ顔でのさばっているように感じる。真面目に生きるよりも、自分よりはるかに楽に生きている人がいて許せない、やるせない。構造的な貧困問題や民族の対立、環境の搾取、原発や基地が建てられる地区やそうした構造は変えられることがありません。神の創造された非常に良い世界は、暗雲や闇に支配されているかのようです。その中ではいくら頑張っても変えようがない、声を上げてもムダ・・・そうして闇の力は私たちの力を吸い取り、あきらめさせ、ますます強大になっていくようです。しかし、これらの「闇」を「以前」にする福音が届きました。


  2. 光の中を歩む

同じ8節で闇に続いて「光」が告げられます。この「以前は闇でしたが、今は・・・光となりました」(5:8)とある変化が、キリスト者に起こった変化なのだと神が宣言しておられます。あなたはもう闇から光に移されている。それは「今は、主にあって光となりました」とあるように「主にあって(主の中で、主において)」光であると言われます。闇が世の力であるとしたら、光は神の支配です。闇の力に振り回されず、だまされもせず、ただ神の支配がもたらされていることに信頼をする。それが「光の子ども」であると呼ばれます。さrないこの「光の子ども」は「光の子どもとして歩みなさい」と命令形でなされていますから、踏みとどまるべき道があり、歩みだす決断があり、歩みを続ける意思を呼び覚ますものでもあります。光の子どもはエスカレーター式に運ばれるのではありません。光の中を歩み続けます。新約聖書の手紙には同じようなメッセージをテサロニケのクリスチャンたちに送っています。「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません」(第一テサロニケ5:5)


主にあって光とされた者は「善意と正義と真実のうちに・・・実を結」(9節)びます。ちゃんと自分のうちや周囲にも実態が伴うのだということです。先ほど「闇」の力は個人的な闇、社会的な闇に分けて考えてきましたが、くすぶり、闇や悪い動機に動かされていた自分が、光の子どもとされてからは主のわざに用いられるようになる、そのような手ごたえが伴ってくるのです。そのために「何が主に喜ばれることなのか吟味」(10節)しながら過ごします。これは「試す」「見分ける」とも訳出されている語で、自分で確かめながら続ける歩みです。いつも自信満々なわけではありません。それこそ神さまとよく交わりをもちながら、これでよいのですか、こうでしょうか、これは間違ってはいないでしょうか、もう少し時間をください、確証をくださいとやり取りをしながら続ける歩みです。試しながらでいい、試されながらでいい、未完成でいい、途上でいい、100%の自信がなくてもいい。それよりも神さまに対しては100%の信頼をもってよりかかり、尋ね、祈り、従う。「光の子ども」として主にとどまる。これを日ごとにすることで、よく吟味し、試され、主に用いられるように整えられ、磨かれ、砕かれ、補われていきます。そうすることでかならず「光は実を結ぶ」(9節)との約束を果たしてくださいます。


自分で実を結んでいる自負がなくてもかまいません。むしろ、そんなものがある人からは悪臭がすることでしょう。やっているのは私なのだといういかり肩の人、鼻息の荒い人には近寄りがたいものです。まぶしい光は必要がありません(強い光で照らされたらドキッとしますものね)。実は、この「実」は単数形で記されています。イメージとしてはたくさんの種類の実がなっているというよりも、それぞれの光の子ども、日々の丁寧な歩みによって紡がれる一つの実です。はっきりこれとこれ!と言えないようなものなのかもしれません。この礼拝に、福岡めぐみ教会に足を踏み入れ、訪れる人が陽だまりにフワッと包みこまれるような雰囲気が漂っていることが感じられるといいなと願うものです。


Ⅱ. 闇から

  1. 神のことばによって

その闇から光へと移される、変化が起きるにはかならずきっかけがあります。ある日起きたらそうなっていた、というものではありません。そのきっかけとは「神のことば(=みことば)」です。私たちは毎週の礼拝において「神のことばをともに聴く」者です。聖書の初めから終わりまで、神は仰せられるお方であり、語られるお方であり、その宣言や約束を成し遂げられるお方です。神が語られたことばを聞いて従うのが信仰者です。アブラハムもモーセも ダビデもそうでした。主イエスに出会う人たちもそのことばによって立ち上がり、従い、癒され、救われました。神のことばを聴くこと。これによって人は変えられます。今朝は最後に5章14節を見てまいりましょう。


この個所は明確な引用箇所は分かりませんが、おそらくイザヤ26:19と  60:1が関わっているのではないかとされています。そして、洗礼式のときに告白されたり、歌われたり、信仰者同士のあいさつ(合言葉のような感じで)としてよく知られていたフレーズであったと思われます。そのために、同じ引用箇所がなくても「こう言われています」と当時のエペソの教会の人たちにも聞きなじみがあること(このように言われているのを知っていますよね)が前提のように書かれています。


  2. 眠っている人よ、死者よ

神なしで生きる者に対して、二つの言い方をして呼びかけています。一つは「眠っている人」もう一つは「死者」です。どちらも辛辣な表現ですが、人間がどのような存在であるのかをよく表している箇所でもあります。人は食べることさえできていたら生きているわけではありません。この地上でいかに満たされて過ごしているとしても、心の奥底から満たされるわけではありません。どれほど頑張って努力していたとしても、真の意味では目覚めてはいないのです。神なしで生きることは「眠っている人」であり、生きるか死ぬかで言えば「死者」なのです。


この節は、私がキリストを救い主と信じ、みことばを語る牧師として決心した聖書個所です(少し自分自身の証しをさせていただきます)。


私はクリスチャンホームに生まれました。父は牧師(私の祖父:日本同盟キリスト教団 古川教会(岐阜県飛騨市)等を歴任)の子、四人きょうだいの次男です。母は、父が大学生のときに通っていた教会の隣に住む仏教徒の長女でした。その二人が教会で出会い結婚し、私は次男(4歳上の兄が一人)です。幼いころから教会に連れられ、牧師に抱え上げられたり、教会学校の先生(婦人たち)に紙芝居を読んでもらったり、青年男性に遊びに連れて行ってもらったり、降誕劇でヨセフ役をしたりしました。ただ、そのような環境に育っても、自覚的な信仰はありませんでした。中高生になると礼拝から足が遠のき(だから、今のジュニアクラスの子どもたちがうらやましいです!)、大学生で一人暮らしになるとまったく教会との関係が切れました。それは、むしろ私にとって束縛から解かれたような解放感がありました。それから社会人二年目までまったく教会や礼拝とは縁遠い生活を送りました。けれども、自分のやりたいこと・生きたい人生がうまくいっている24歳の夏から「このままで本当にいいんだろうか」という何とも言えない焦燥感に襲われるようになりました。仕事も楽しみも人付き合いも、自分の思い描いたとおりになっている状態で、そんな気持ちになるとは自分で想像もしませんでした。ごはんが食べられなくなり、友人とも遊べなくなり、このままではどうしようもないと大阪から岐阜の実家へ引き上げることにしました。環境を変えれば、心境の変化があるのではないかと考えた末です。しかし、そんなことをしたところで根本的な思い・焦りは収まることがありませんでした。「何かをしなければいけないのに、それが何なのか分からない」状態が続き、心はずっと重たいままでした。


そんな思いを抱えて寝床に入ろうとしたある夜、ふと部屋の本棚にある聖書に目がとまりました。それは両親が中学の入学祝に買ってくれた聖書でした。しかも、チェーン式というとても分厚い立派な聖書です(両親の願いがそこに込められている)。そして、聖書なら今の自分への答えが書いてあるかもしれないと思い、手に取りました。そこで開いたのが今朝の個所であり、しかもこのエペソ5章14節の三行だけが光って見えました。そこを読むように導かれたとしか言いようがありません。


それで「眠っている人よ」と読んで、まさに寝床にいる私はその通りだと思いました。また「死者の中から」とあり、まさに今まで自分は自分が願ったとおりに生きてきたけど、その先にあったのはまるで生きた心地がしない死んだ者のような空恐ろしいものしかなかったことを言い当てられました。神さまから離れている自分は「眠っている人」であり「死者」なのだとうなずくことができました。そして、そこから自分がなすべきことも書いてありました。


Ⅲ. 光の中を

  1. 起き上がる

眠っている人には「起きよ」、死者には「起き上がれ(その時の訳では立ち上がれ)」。そう書いてあります。ここから自分は「起きる」だけでいいのだと驚きました。「そうすれば、キリストがあなたを照らされる」と三行目にあったとき、心の重荷がすべて消えていきました。もう自分で頑張らなくていいのだ、もがかなくていいのだ、答えや意味を探さなくていいのだと安堵し、それまでの焦燥感が一気に、すべてなくなりました。私がキリストに出会った瞬間でした。それまで24年間、どんなに教会に行っても、礼拝にいても決して求めることも味わうこともなかったイエスが救い主であることを知ることができました。ずっと聞いてきた十字架の話が胸に飛び込んできて、「お前がどれほど無視しようとも、初めからわたしはお前を愛しているよ」「これからどんな悪い点がお前に見つかったとしても、わたしの愛は変わらないよ」「この愛を知らないで生きていたから、そんなに苦しんだんだよ」と語ってくれているようでした。そして、私自身がいい子だからとか、回心しそうだからとか、見込みがあるからではなく、まったく自分の道だけを突き進んでいた者に目を留め、まったく見込みがないときに十字架にかかり、まったくそんなそぶりをする前から待っていてくださったことに驚愕しました。そして、この方を宣べ伝えること以外の仕事をすることが考えられなくなり、牧師として献身する思いも同時に与えられました。


それまではなぜ両親がクリスチャンなのかと考えたこともありましたが、このわがままで自分勝手な私一人の救いのために、神さまの計画はずっとずっと前から進んでいたことを知ってびっくりしました。私が神に立ち返るまでの神の忍耐、愛の深さはずっと忘れてはいけないことだと思います。


  2. 光あてられて

その晩は一人で回心と献身の祈りをしました。翌朝、両親にそのことを告げるとすぐ教会に行って牧師に伝えるように言われました。私は、自分の中高生時代や大学時代をクリスチャンとして過ごしたかったと思ったので、両親に「なんでもっと伝道してくれなかったのか」と聞きました。両親は「何度も言ったけれど、あなたは聞く耳を持ってなかった」と答えました。だから、今のジュニアクラスや大学生といっしょにみことばを読めるのは、彼らのことが本当にうらやましいと思いますし、私自身への恩返しのような気持ちです。幼少期から難しい中高生時代まで、無償の愛で私に接し、みことばを教え、交わりをもってくださった教会の兄弟姉妹、クリスチャンに感謝します。改めて態度の悪い私、応答もしない斜に構えた私に、嫌な顔ひとつせずにいてくれた教会の方々はすごいなと思いました。だから戻ってこれたのだと思います。「元気に賛美しないならもう来るな」とか「聖書も開きもしないでもっとやる気を見せろ」「私が準備して話しているのになんだその態度は」などとキレられていたら、回心してからも教会に行こうとはならなかったはずだからです。彼らが喜んで、そしてこちらがどんな姿勢であっても変わらずに伝道してくれたからこそ、私は救われ、今もこうして教会にいることができています。そして、私からも(彼らほどではないにしても)、無償の愛を流し、変わらない姿勢・態度でみことばを伝え、分かち合いたいなあとの願いを持っています。


この3行をもって、私自身は闇から光へ救い出された回心、光のうちを歩む献身の思いが与えられました。そして、最近新たな発見がありました。それは3行目の「そうすればキリストがあなたを照らされる」との約束の部分です。これまでキリストが照らされるのは、私の行く道だと考えていました。これから何をすればよいのか迷うことがない、キリストが照らしてくれるので心配する必要がない・・・そんな風に思っていましたが、みことばには「キリストがあなたを照らされる」とあります。「あなたの道」とか「あなたの行き先」ではなく「あなた」です。キリストが私自身を照らしてくださる(未来形なのでこれからもずっと続く約束です)。それは私自身で輝こうともがいていた生き方からの転換です。結局頑張っても、望みをある程度達成しても光が見えない闇からの救出です。キリストを無視し、十字架を笑い、人を自分のために利用してきた罪そのものの生き方では、闇をうごめくしかありませんでした。私が24歳までに生きてきたものは明るみに出され、何を吐き出しても神の栄光どころか益となるものはありませんでした。キリストがいのちをかけて贖ってくださったこのいのち。むなしいもの、なくなるもののためでなく、永遠のいのちのために労するようにされたことを心から感謝しています。私自身は見込みや力のない者です。それでもこの私を照らしてくださるキリストの光、愛こそが素晴らしいのだと生涯証しさせていただきたく願います。


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