聖書 マタイ26:20-25
イエス・キリストは「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(マタイ18:20)と言われました。今朝の聖書箇所はイエスと弟子たちが食事をする場面です。そして、この礼拝も主イエスの名のもとに私たちは集まっています。イエスを中心とするとき、弟子たちだけでなく、私たちも主イエスとの交わりにあずかることができます。今日もイエスがここにおられ、ここで話され、ここで手を差し伸べられる礼拝を過ごしましょう。今年の聖餐礼拝のテーマは「聖餐の主を覚える」です。これから味わうパンと杯を用意し、分け与える主はどのような方なのかを知りたいと願います。
まさか私?
一つ目、主は私たちを探られる方です。この場面は「最後の晩餐」です。弟子たちはこれが最後とは思っていませんでしたが、主イエスはこれが最後の食事となり、この後十字架を背負うことを知っておられました。
「十二人と一緒に」とは、どんな弟子とも最後まで食事をして親しくしてくださるという意味ですね。そこで「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります」と意外な話題を切り出されます。もし、私がこの中の誰かが自分を裏切ると知っていたら、食事をすることはできません。平静を装おうとしても、怒りや憎しみが湧いて来て当たり散らすでしょう。しかし、主はご自身の最後の食事を「裏切る者」といっしょにされました。こういう愛を示されていることに気づきたいと思います。
「あなたがたのうちの一人が」と言われたとき、弟子たちは誰一人として「きっとあいつだ」「私以外の誰かだ」とは言いませんでした。神学校の授業で「エデンの園で私なら神に背くがなかったと思う人はいますか?」と教授が質問しました。クラスで一人だけ「はい、私は背きません」と言った生徒がいました(それが誰であるかは想像にお任せします)。あまり深く考えずに答えるなら「自分は大丈夫」と言えるかもしれませんが、主から問われたことに対して、弟子の全員が動揺しました。「一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と悲しみながら聞いています。弟子たちは自分に自信を持つことができませんでした。「自分だけは違う」と言うことができませんでした。誰もが自分の内側に思い当たる節があったので、自分だけは主を裏切らないと否定できませんでした。あのペテロでさえ「私だけは違う」と言えません。
主は弟子たち、私たち人間の弱さ、もろさ、ふがいなさをご存知です。最後の晩餐ですべて弟子たちがうろたえたように、私たちもこの聖餐礼拝で心の内を探られる必要があります。自分は大丈夫と思っていて良いほど、心は頑丈ではないことを知るのです。あの人は危ないなと指摘できるほど安泰ではないことをわきまえるのです。「主よ、私ではないと言ってください」と正直に打ち明けたいと願います。この告白は決して恥ずかしいことではなく、常に愚かさをはらんでいる人間の正常な吐露だからです。大きな罪を告白したダビデもこのように祈っています。「神よ 私を探り・・・私を調べ・・・私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いてください」(詩篇139:23-24)
聖餐式にあずかるにあたり、自分の内側にある罪や暗さを主の前につまびらかにし、隠れて背くことがないように、主に向かいましょう。
2.悔い改めの機会
二つ目、主は私たちの罪を暴き出すのではなく、私たちを罪から悔い改めへと招く方です。主はだれが裏切るのか知っておられましたが、それを公然とあばくことはされませんでした。「わたしと一緒に手を浸した者がわたしを裏切ります」(23節)、するとイエスを裏切ろうとしていたユガが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた(25節)。
ユダにだけ分かる方法で、裏切りを知っていることを伝えられたのです。25節の「いや、そうだ」とは直訳すると「それはあなたが言う」です。つまり、従うのか裏切るのかはユダ自身が決めるべき事でした。無理やり、主イエスが裏切らせたわけでもなく、誰かに強いられてでもなく、ただユダ自身が言って、決めるのです。
そしてその前に「人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです」(24節)とイエスさまらしからぬことまで告げています。これは裏切る者は生まれてこなければよかったという呪いではなく、人の子を裏切る罪の報いは非常に大きく、悲劇であって、永遠のいのちを損なう結末を招くという意味です。イエスが誰であるか分からなくなってしまっているユダに対し、捨てるべき罪を言い当て、決断しなければならない事柄を示し、滅びよりいのちを選ぶように招いておられます。罪の道を突き進んで裏切って後悔するよりも、今主の前で立ち止まってわざわいを招く道から向き直ることを願っておられます。この26章ですでにユダヤ祭司長のところへ行ってイエスを売ったらその値段はいくらになるか、いつイエスを引き渡そうか狙っていました(14-16節)。自分の中で計画をし、それを着々と進めていたのです。それを止める機会がないまま今イエスといっしょに食事をしています。そして主から悔い改めるように面と向かって言われています。
それでも、他の弟子たちと同じように「まさか私ではないでしょう」としか言えませんでした。「主よ、どうしてご存知なのですか。主よ、私を止めてください」と切り出すことができませんでした。
こういう過程があって、主イエスはユダを含むすべての弟子といっしょに食卓について、パンは「わたしのからだ」、ぶどうの実で造った飲み物は「わたしの契約の血」と言って差し出されます。これを受け取るとき、嫌でも私たちはその意味を考え、味わいます。「これは私の代わりに引き裂かれた主のからだ」、「これは私の罪を赦すために流してくださった主の血」だと心に刻むのです。聖餐式では「まさか私ではないでしょう」としか言えないふがいない私たちを招いてくださっています。聖餐式では、自分では軌道修正ができず、考え直すことも、止めることもできない私たちに、「まさか私が」という疑いを持たせ、弱さやもろさに直面させてくださいます。聖餐式では、私たちが救い主なしに進むのをやめさせてくださいます。聖餐式では、私たちがひそかに抱いていた悪い思いをあぶり出し、その苦い思いを抱え続けないように主の前に降ろす機会です。もし、選択や決断が迫られていることがあれば、この聖餐式の中で、主イエスの顔を見て下すことのできる決断をしたいのです。「まさか私では」から「主よ、私をとらえてくださってありがとうございます」と感謝をもって進み出ましょう。
3.罪を赦す方
三つ目、主は私たちの罪を赦してくださる神です。聖餐式には主の愛と寛容とが込められています。「寛容」とは相手が何を選択してもそのままにしてあげることではありません。たとえば、私が妻に寛容だからといって、妻に「100日家に帰って来なくてもいいよ、どこで誰と何をしていても愛してるよ、私は寛容だからね」と言ったとしたら違和感がありますよね?それは違うんじゃないか、と。なぜなら、ここで寛容を取り違えているからです。寛容とは相手がどんな行動を取っても許すことではありません。それは放任であり、無責任であり、愛の関係ではありません。寛容とは、相手がその行動や言葉を悔い改めて戻ってくるなら赦してあげることです。どんな悪でも、今のままでいいよというのは寛容ではないのです。それは、今朝24節で主イエスが言っておられることと符合します。主はユダに対してそのままではいけないと忠告しておられるからです。
聖餐式は、主が罪を赦してくださる方であることを味わう式です。次のみことばを味わって聖餐に移ります。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1章9節)
よくこのみことばを聞いてみてください。主は罪を赦してくださいます。その理由は「神は真実で正しい方ですから」とあります。ちょっと待ってください。普通は逆ではないですか?神が真実で正しい方であれば、罪を断罪し、罪を残るところなくさばくのが「正しい」方です。あるいは、「神はとてつもなく優しく海のように深い愛であるので罪を赦す」のであれば、文章のつじつまがあいます。しかし、ここでは「神は真実で正しい方ですから、罪を赦します」とあります。そうすると、その意味はひとつだけです。神は罪を赦すことが、真実で正しいとなることをしてくださったからです。神にとって罪を赦さないことは不真実で、不正であるくらいのことをしてくださったからです。それがイエス・キリストの十字架と復活です。
神は、イエス・キリストが罪人のかわりに十字架で死なれたことによって、もはや人の罪を赦すことが真実で正しいとしてくださったのです。なぜなら、キリストの身代わりは100%完璧な死であったので、もはや罪の赦しのために人間が何かをしなければならないことがなくなりました。1%でも人間がしなければならないことは何もありません。もし、キリストの十字架に加えて、私たちが何かをしなければならないとしたら、神は不正に取り立てることになり、神が真実ではなくなります。それほど、キリストのみわざは完璧です。神は真実で正しい方なので、罪の赦しのために私たちから何かを要求することは一切ありません。
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