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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「福音にふさわしく歩む」


聖書 ルカ4:38-44

はじめに

日々暑くなってきました。まだ梅雨明け(宣言)は出ていないようですが、もう夏模様です。ただ、その夏っぽさが尋常ではありません。


昨日、私が10歳の時の1984年の夏の気温を調べてみました。全国の最高気温は38度という場所もありましたが、8月の平均気温は28.6度でした。7月は26度、9月になると24度です。本当に良い時代でした!

昨年2023年は観測史上もっとも暑い夏を記録したそうです。8月の平均気温が約30度となり、常に「真夏」です。もう以前のような夏の活動(外出やスポーツ、移動など)をしっかり見直す時期に来ています(特に私のように無茶や過信する者は自重が必要です)。


けれども、夏のあとには秋、そして冬が到来します。創造主なる神が季節と順序とを備えておられるからです。私の義父は、信仰のきっかけとなった言葉に、ある宣教師から「どうして春になると花が咲くんでしょうねえ」と言われたことだったと話してくれたことがありました。それまで神について考えたことがなかった義父が、当たり前のように来る季節、花が咲くという世界の素晴らしさに目が開かれ、主を信じる者とされました。物事には順序があります。それをよく観察すると、そこにある不思議さ、深淵さ、緻密さ、正確さにハッとすることがあります。


このことは自然界を見てもそうですし、工場の機械や製造過程、車や自転車の仕組みを見ても気づけることかもしれません。良いものは、良いサイクル(順序)で動いています。


今朝は、私たちが「福音にふさわしく歩む」(タイトルが生きるから歩むに変わっています)ためにも、サイクル(順序)があることをごいっしょに見ていきたいと願います。季節が美しく過ぎ、機械が正しく動くように、クリスチャンにも良いサイクルが存在します。


このルカの福音書も「(尊敬するテオフィロ様)あなたのために、順序立てて書い」(1:3)たものです。今朝の聖書箇所ルカ4章38~44節に書かれている順序に従って、天から出た良き知らせ=福音をともに味わいましょう。



  1.  福音を起点に

初めは、福音を起点にするということです。起点は出発点、スタート地点です。そこから始まるという点です。そして「点」ですから幅は狭いです。この小さなポイントをつかむことで、私たちはより福音にふさわしく歩むことができるようになります。


場面はカぺナウムの会堂を出たところから始まります。イエスがシモン(ペテロ)の家に入られると、姑がひどい熱で苦しんでいました。人々がこぞって彼女のことをイエスにお願いすると、主はみことばをもってその熱をひかせました。それで、彼女は立ち上がりもてなしました。


この順序をたどってみましょう。

まず主イエスが立ち上がり会堂を出て、シモンの家へ来られました。福音は神が立ち上がるところから始まります。そして、シモンの家の中まで入って来てくださいました。余談になりますが、以前教会で福祉の働きをされている先生を尋ねてインタビューした際、このように言われました。「福祉という漢字の組み合わせを考えてみてください。福は「天の助け」「神から授かる助け」という意味です。そして祉は「立ち止まる足」の象形です。そうです、福祉とは神が足を止めて立ち止まり、祝福を与えることが語源になっています。それで私たちの教会の使命は福祉の働きとしました」。

とても分かりやすく、印象的でした。単に慈善事業を営むのではなく、原点は神が立ち止まって祝福を与える働きにあるのだと教えられたからです。


福音は神があなたを訪れてくださることから始まります。そこで神が足を止めて立ち、祝福を与えるために留まってくださることです。このシモンの姑の個所を見るとまさにそうなっていることに気づきます。人々が彼女を癒してくださいとお願いしたのは、主イエスがそこに来てくださった後です。


古代から教会は、神からの招きを大切にしてきました。他の宗教は「神よ、ここに来てください」と雨ごいをするように人間から神へ頼みごとをすることから始まります。そしてその熱心さ、必死さ、熱狂さによって神が重い腰を上げて来てくださるのだという考えです。しかし、福音は真逆です。あろうことか、神がまず私たちのところへ来てくださるのです。しかもそれは隣の町内からではなく、天の御座を捨て、人となられ、わざわざ旅をして訪れてくださる仕方です。主イエスは、私たちと出会うためにまず犠牲を払ってくださるお方です。


私たちが人と会うとき、結構疲れます。連絡するのがおっくうに感じ、当日行くのが面倒にもなります。しかし、福音の起点は主から訪れてくださることです。

主イエスの訪れがあり、そのあと人々が彼女の癒しを願い出ました。それからイエスが熱を叱りつけると、彼女はよくなり、人々をもてなしました。


ここには奉仕の起点も記されています。奉仕は主からの救いを味わってからなされるものです。奉仕は健やかな状態で始められるものです。それは身体の状態、時間調整、そしてもっとも大事なのは霊性です。無理がかかっているなら、身体を打ち叩いてする必要はありません。なぜなら、それは福音が出発点となっていないからです。時間的に無理をして慌てたり、気分が落ち着かないなら一度手を止め、考え直すこともあってよいでしょう。そして仕方ないからやる、喜びがないけれどもやらないといけないという霊性で奉仕をするなら、きっと燃え尽きます。またその奉仕からつぶやきが起こって、良い実を結びません。そのようなときは、主の訪れを待ちましょう。待ち望みましょう。そして、ただ待つだけでなく、こうして素晴らしい神の家族とともに礼拝をささげるとき、賛美するとき、「主よ、どうか私のもとにおいでください」「主よ、あなたを待ち望みます」「主よ、この私にふれてください」と期待して臨みましょう。そうすると、ここに聖霊が豊かに、豊かに臨んでくださいます。


「ですから、私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」(第二テモテ2:1)



2. 福音を受け入れ

福音は主の訪れからスタートし、次のサイクルは福音を受け入れることです。せっかく来られたとしても、断ったり、追い返したり、居留守を使えば、その後の展開はありません。シモンペテロの姑はジーザスのことばを受け入れました。また、この後に様々な病で弱っている人たちは「手を置いて癒された」(4:40)あるように、ジーザスに触れていただくことを許容しました。彼らがジーザスの訪れを拒否し、声に耳を傾けず、差し伸べられた手を払いのけていたなら、まだひどい熱に苦しみ、病で弱り果て、悪霊たちの思うままに操られていたことです。


もし聖書に関心があるなら、ジーザスが何と言っているか求めましょう。礼拝に集っているなら、ジーザスにふれていだくように心を開きましょう。もし、そうそう簡単に信じるわけにはいかない、聖書を全部読んで全部理解してからとか、世界のみんながジーザスを信じたら私も信じる・・・・・・という方がいるかもしれません。


娘たちが自転車の練習をするとき、私は両方の娘に同じようにしました。それは「うしろで支えてるからね」と言って、娘がペダルを回し始めたら、すぐに自転車から手を離すやり方です。それですぐに乗れるようになりました。実際に補助輪なしで自分が自転車に乗ることは恐怖心があり、それができないと思うものです。

しかしやってみると、できることが分かります。行動の壁を乗り越えた瞬間、「できた」「わかった」「やった」という喜びや達成感を味わいます。「私は自転車に乗れる人になった」という変化を実感するのです。それは「うしろで支えてるよ」というメッセージを受け取り、実際に漕ぎ出さないと絶対に味わうことのできない喜びであり、変化です。自分の内に変化があると生き方が変わります。


このことは、福音を受け入れることにも通じます。福音を聞いただけ、聖書を知っているだけで実際に受け入れず、行なわないならばその素晴らしさを体験できず、変えられることもありません。自転車を離すのではないかと心配して、ずっとうしろを見て漕ぎ出さない状態と同じです。ここでのシモンの姑、病を負った人、悪霊につかれた人たちも主イエスとは初対面だったでしょう。しかし、その権威あることばをまっすぐに聴き、その優しい御手を患部に置いてもらうようにしました。


これは何かをしないと報酬がもらえないという世界に生きている私たちにとって驚くべきことであり、あきれてしまうことです。何もしていないのに救い主がすぐそばに来てお金も出してないのに癒されるなんておかしい、インチキくさい、と。そうして福音を受け入れず、遠ざけます。しかし、福音なしで生きることはずっと要求に答え続け、結果を出し続けないとなりません。

自分の価値を行動や実績、あるいは人との比較で決めるので、できないこと、やっていないこと、劣っていることを極端に嫌います。自分の弱さを受け入れ、みじめさを認めることをしません。そうしたら負けだし、そうしたら自分が無価値、無益、役立たずになるからです。それでもがき、苦しみ、泥沼から抜け出すことができません。


ただし、そうした不安や疲れを覚えない人はいません。生まれてこの方一度も疲れたことがないという人がいたら、それはただの虚勢です。ジーザスは「すべて疲れた人は・・・・・・わたしのもとに来なさい」(マタイ11:28)と呼びかけられました。人生の根源的な疲れ、漠然とした不安は主イエスから離れていることから生じます。「わたしのもとに来」ることがなければ、決して根本的な解決がない問題だからです。


福音は、その問題を解決します。あなたが何かをしないと評価されない、成功し続けないと不安に駆られる、自分の価値がわからないといった不安への答えを、福音は提示します。福音は、神のまなざしがあなたの本当の価値だと告げます。神があなたをどのように見ておられるかが、あなたにとってその福音を受け入れてこそ、揺るぎない平安となると約束します。その答えと同時に、福音は問いかけます。この福音なしで生きていて良いのか?福音を受け入れないでどこへ向かうのか?



3. 福音を中心に

福音にふさわしく歩む(=生きる、今年の福岡めぐみ教会のテーマ)ことについてみていきましょう。私たちがまっすぐ歩むためには、ふらついていてはなりません。今日はこっちに行こう、明日はあっちに行ってみようと目的を定めず気分に任せていたら、とんでもない所を歩いていたことなんてことになりかねません。福音を出発点とし、福音を受け入れたら、福音を中心にして歩みます。生卵とゆで卵を見分ける方法は転がしてみることです。中心ぐらぐらする生卵は斜めに転がり、中心に黄身が固まっているゆで卵はまっすぐに転がります。私たちも福音を中心にしているなら、まっすぐに歩むことがかないます。


福音を中心にした歩みは主イエスの過ごし方から学ぶことができます。「朝になって、イエスは寂しいところに出て行かれた」(4:42)のは、弟子や群衆から離れるためではなく、祈ることが目的でした。次の章で「イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた」(5:16)とあります。この4章でも、次の5章でも主イエスは多くの人々を教え、また癒されていました。しかし、そればかりをするのではなく、寂しいところ=一人になれるところで祈ることを大事にされました。特にここでは「朝になって」とあるので、順序では朝=祈り、日中~日が沈むまで=具体的な働きをするというサイクルのようです。

ここから、福音を中心にした歩みは、祈りを大切にすることが分かります。個人の隠れた場所での祈りはいかがでしょうか。リビングライフを用いている方もおられますし、それぞれのテキストやアプリ、また聖書通読をもってなされている方もおられます。これは積み上げが大切になりますので、一気にたくさん、今日だけ3時間というやり方よりも、いつものペースになるように、習慣になるようなボリュームですると身に付いていく、実が結んでいくと思います。


また、先週の礼拝後にはあちらこちらで祈る姿が見られました。二人、また三人で祈るグループがあり、とっても教会的だなと思いました。これからも導かれたときに祈る時間にオープンでありましょう。今日は礼拝後、ミニミニ交わりタイムを企画しています。お時間確保できる方はぜひ加わってください。


その祈りから、主イエスは「神の国の福音を宣べつたえなければなりません」(4:43)とおそらく語気を強めて言われました。決然とした様子であったと想像できます。それは「わたしは、そのために遣わされたのですから」と結んでいることからも伝わります。ジーザスのミッション(使命)は「神の国の福音を伝えること」です。福音を中心にした歩みは、福音を伝える歩みへと向かわせます。いわばこれがバロメーター・羅針盤になるのですね。

私たち福岡めぐみ教会は、キリストをかしらとした主の教会です。この教会はかしらであるキリストの手足、各器官となって歩みます。福音に始まり、福音を受け取り、福音に歩むことは、そのままキリストに始まり、キリストを受け取り、キリストに従って歩むことです。


福音なしでは私たちのクリスチャンライフは力を失います。余力があったら、仕事のあとで、夜のゲームの時間があまったら、いつか気が向いたときと後回しにしていたらいつまでたっても歩み始められません。福音にふさわしく歩むためには、もっとも大切なものをもって主を礼拝し、もっとも聖い声・手話で主を賛美し、もっとも良きものをもって互いに交わり、励まし合い、福音とともに一歩、また一歩と前進していくことです。


どうか私たち福岡めぐみ教会の礼拝と営み、交わりがいつもキリストから始まり、キリストを中心とし、キリストとともにありますように。今週もここに臨んでくださっているキリストを迎えましょう。キリストから恵みと力をいただきましょう。重荷を負ってくださるキリストとともに歩みましょう。「イエスは主です」という賛美と告白、証しに満ちた主の福岡めぐみ教会でありますように。その一員であることに喜びと誇りを抱きましょう!!


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