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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「最高の契約に入る」


聖書 マタイの福音書 26:26-30


 私たちが今集まっていることは本当に不思議です。私も今年で50歳になりますけれども、今日このメンバーで集まって礼拝するということを計画したことも、招待したこともありません。ただ主がここにおられるお一人おひとりを選んで集めてくださったからに他なりません。ある人はクリスチャンホームで生まれ育ち、ある人は癒しを通して主と出会い、またある人は友人に伝道されて聖書を読むようになり、またある人は自分で一大決心をして教会に来られた方もおられるでしょう。私たちが今日ここに集められた方法は様々ですが、ただ一つ同じことがあります。それは皆、同じ十字架によって救われたということです。


  1. 契約として


一つ目、主は私たちと契約を結ばれる神です。旧約、新約聖書とあるようにこれは契約の書物です。神さまは「そこにいるように感じる」とか「こんなこと言われた気がする」というような不確かな存在ではありません。主は何にもよらずに存在し、はっきりと語られる神です。

その語られた内容がまとめられているのが契約の書、聖書です。聖書から、私たちは神がどのようなお方で、私たち人間とどんな関りをされるのかを知ることができます。


「契約」と聞くと何を思い浮かべますか?堅い、冷たい、事務的なイメージがあるかもしれません。しかし、契約は神が誠実な方であること、行き当たりばったりで何かをすることがないことを証明してくれるものです。神は契約に基づいて働かれます。状況や気分次第で何をしてくるのかまったく予想がつかないという方ではありません。聖書により、私たちは神についてじっくり知ることができ、またこのようになるのだと人生を慌てずに生きられるようになります。


その中でも契約のもっとも良い点は何でしょうか。それは契約を結んでいれば、自分がどういう者か、どんな性格なのか、隣の人より優れたところがいくつあるか・・・ということは一切関係がないという点です。大事なのは契約関係の中にあるかどうかだけです。聖書とは、神が私たち人間と結ぼうとしておられる救いの契約書です。その聖書が、渡下たちが救われるために必要なのは、神と契約関係に入ることだと教えています。それゆえ、私たちがもっとしなければならないことは、自分の性格改善や善行を積むことではなく、契約の内容を確認し、神を知ることです。救いはここにかかっているからです。

神がどのような契約書を私たちに差し向けておられるのか。それについて多くの個所を挙げることができますが、今朝は「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」(第一コリント6:20)を紹介します。ここには、主があなたを買い取られたと書いてあります。しかも「代価を払って」あなたを買い取られました。この契約の鍵は所有者の変更がなされたことです。主は代価を払って私を買い取ってくださったと信じるならば、その人はもう主のものとされています。たとえ誰かが「神がお前のような汚れた者を相手にするはずがない。ましてやお前を救ってくださるはずがない。さばかれて当然じゃないのか」と責め立てたとしても、それは無効です。


なぜなら、契約によって主が買い取られたことが確立しているからです。主の契約によって私たちはあらゆる悪の攻撃から守られます。そうです。私たちは主のものとされたのです。神は私をそばに置いてくださっています。そう感じるからでも、そう強く願っているからでもありません。嘘偽りのない神が契約の書においてそう宣言されているからです。この契約の文字はただの情報ではなく、私たちの存在価値を高め、私たちの生涯は主とともに生きるためにあり、主のために生きることが喜びと感じるようにしてくれます。主の契約はただの文字ではなく、私たちを生かす力となり、ただのルールブックではなく、私たちを導き造り変えます。



2.からだと血を


二つ目、主が私たちを買い取るために支払った代価とは、「イエス・キリストのからだと血」です。この聖餐礼拝の中心はキリストのからだと血です。それはイエス・キリストが十字架につけられたご自身のからだとそこから流された血は、あなたを買い取るために支払った代価です。なぜ、そこまでする必要があったのでしょうか。お金ではなく、主のいのちが支払われたのです。


「自分の身代金を神に払うことはできない。たましいの贖いの代価は高く、永久にあきらめなくてはならない」(詩篇49:7-8)とあります。これも契約書の一部です。私たち人間の罪はとても重く、自分を罪から解放することは絶対にできないので「永久にあきらめなくてはならない」と書いてあります。何を差し出しても、贖いの代価にはなりません。自分のいのちを差し出しても、買い取ることができません。自分のたましいの救いは、永久にあきらめなくてはならないのです。


イエス・キリストは「これはわたしのからだです・・・わたしの契約の血です」(マタイ26:26,28)と言われ、その通りからだを釘付けにされ、槍で血を流されました。私たちの身代金を支払われたのです。こうして私たちが永久にあきらめないといけなかった問題が解決されました。たましいの贖いの代価が支払われたのです。

福音は、主イエスがそのからだと血によってすべて罪の代価を払いきってくださったことを知らせています。私たちは本来滅んで当然の人間でした。聖なる神の前では罪だらけで汚れており、滅びの死を遂げるのは当然の報いです。ただし、人間はその罪を背負って疲れ果て、逃げ隠れて追いやられ、おびえて過ごすことは幸せなことではありません。どこかで罪の問題を解決しなければ、重荷が解かれず、恐怖は取り去られません。


それで旧約聖書では、罪人が神の前に出て罪の赦しを味わい、解放されるため「動物のいけにえ」の規定がされていました。罪人が死ぬ代わりに、羊や牛や鳥を犠牲にし、彼らが引き裂かれ、血を流すことによって赦されてきたのです。そうして、罪の縄目から解き放たれ、その通りにしていれば神にさばかれることはないと確信し、それゆえ救いの神をほめたたえていました。


イエス・キリストのからだと血は、その集大成です。雄やぎや雄牛の血は毎日ささげられる必要がありましたが、主イエスの血が流されたことによって、救いのわざは完了しました(へブル9:12)。それが先ほどの「代価を払って買い取られた(完済)」意味です。キリストがやり切ってくださったので、私たちがすべきことは何もありません。だからキリストがすべてなのです。聖餐式のパンと杯でキリストがすべて成し遂げられたことを確信するのです。



3.罪の赦しのために


三つ目、主は私たちの罪を赦してくださる神です。聖書の契約では「肉のいのちは血の中にある」(レビ17:11)とあり、「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(へブル9:22)とあります。これから飲むぶどう液は、血です。いのちです。しかも、動物ではなく、イエス・キリストの血潮です。罪のない方が流された血です。傷もなく汚れもないキリストの血潮です。尊いのです。それはご自分のためではなく、あなたの罪の赦しのために流された血潮だからです。


だからこれを飲む者は、罪の赦しを確信することができます。罪のない方が血を流されたからです。これを飲む者はもうむなしい生き方をしなくてもよくなります。むなしい生き方をしたいと思わなくなります。色々なもので人生を満たそうと考えなくてもよくなります。なぜなら、何よりもイエス・キリストの血潮こそが尊いものであること、価値あるものなのだと知るからです。


さらに、罪赦された者は感謝をもって生きるようになります。永久にあきらめなければならなかったたましいの救いが成就したからです。この世にあるすべての富を持っても買い取ることのできなかった救いを持つようになったからです。そして、救いを受けた者は勝利者として生きるようになります。死と滅びから確実に解放されたからです。

私たちはこうした証しをもって、ここからそれぞれの場に遣わされていきます。それが礼拝です。敗北者のように、うなだれてここから出て行ってはならないのです。主イエスの愛から私たちを引き離すものはもう何もないのですから、勝利者としてここから歩き始めるのです。もう恐れる必要はこれっぽっちもありません。先行きの不安も経済的な不安も健康の不安も必要以上に抱えることはありません。なぜなら、私たちは主のものとされたからです。私たちは罪赦された者だからです。滅びと死から解放されています。主がそばに置いてくださっているからです。これ以上の安心、平安、喜びはありません。


そして、この素晴らしい福音を表現していきましょう。主は一人として滅びることないこの福音を信じてほしい、伝えてほしい、表現してほしいと願っておられます。ご自分のいのちをかけたみわざ、福音を一人でも多くの人に知ってほしいと願っておられます。そして、あなたが今週誰かにこの福音を伝えることを願っておられます。


今朝私たちがここに呼ばれ、集められたのは主があなたを選ばれたとしか言いようがありません。あなたが今、福音を聞いているのは恵みでしかありません。あなたが今日、イエス・キリストを近くに感じ、主の契約の素晴らしさに気づき、主の流された血潮に胸が打たれているなら、たましいの救いを間違いなく受けています。ハレルヤ!



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