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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「唯一の希望」

聖書箇所 : 詩篇22篇:1~5節



はじめに

神の祝福をいただくことは人の根源的な願いです。

神さまに祝福を願ったのに、まったく違う結果になったという経験はありますか?


聖書には、神からの命令と祝福とが対になっている箇所を見つけることができます。


たとえば「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)とか「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(11:28)などが頭に浮かびます。これらは「〇〇しなさい」という命令と「そうすれば・・・」という結果としての祝福が約束されています。


こうしてみると、祝福だけを願い、それを待つのは少し自分本位かもしれません。


それでは、神の祝福をいただくために、神の命令に従ったのに違う結果になったという経験はありますか?

実は先週、わが家でまことに深遠な神学論争のような出来事が起こりました。



娘の学校で持久走があるというのですが、娘は冬だし、長距離だし、半そで短パンだしということで前々日から行くのを渋っていました。夫婦の間では、娘が学校を休むらしいとヒソヒソ情報収集をしていました。前日になってもその決意は変わらないので、親として強く言ってみたり、横から励ましてみたりしました。


諭す中心点は「嫌かもしれないけれど、行くことできっと神さまは祝福してくださるよ」ということでした。全部私たち人間の好き嫌いで決めていたら、せっかく神が用意してくださっている祝福を取り逃すことになります。そうして当日の朝、気分が乗らないまま、それでも娘は登校していきました。帰宅後、妻が「どうだった?」と感想を聞くと、娘は「祝福なんてなかった」と返事をしました。娘が言うには、「俺は面倒やけん走らんけん」とボイコットした男子生徒により、クラス全員の連帯責任で今週また持久走をすることになったそうです。


親としては微笑ましくもある結末ですが、「嫌でも従うときっと神さまの祝福があるよ」と告げた手前、より深くそのことを考える機会となりました。さて、今週も娘は学校へ行き持久走をするのでしょうか。また、このことを通して与えられる神の祝福とは何でしょうか。今朝、主は私たちに詩篇22篇を備えてくださっていますが、まるで私たち家族のためにあるような気もしています


  1. 絶望と不信仰

詩篇22篇は絶望から始まります。

「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず 遠く離れておられるのですか」(22:1) 


表題を見るとダビデが作り、歌った賛美であることが分かります。しかも、「暁の雌鹿」の調べにのせてとあるので、何度もみんなで歌われたことでしょう。大勢の人が「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか」と声を合わせている光景は、壮大というよりも壮絶な気持ちがします。


ましてや、これが礼拝で歌われてきたとなると、そこに居合わせた人や賛美を聞いた人には、どのように聞こえるでしょうか。仮に、私たちがここで「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか」と外にも聞こえるように大きな声で繰り返していたら、人々は「教会っていいところだなあ」とか「賛美歌って素敵!」とは思わないでしょうね。


反対に「クリスチャンって神さまに見捨てられた人なんだ」とか「賛美歌はのろいみたいだね」という印象を持つかもしれません。



ここで頭の体操をしましょう。詩篇は全部で150篇あります。では、それらのうちこの22篇のような「嘆きの詩篇」と言われるものはどのくらいあると思いますか?


詩篇には(細かくすると幾つにもなりますが)、感謝の詩篇、祭りと契約の詩篇、知恵の詩篇などいくつかの型(タイプ)に分類できます。その中で嘆きの詩篇はいくつくらいあると思われるでしょうか。

答え:実は60以上(3分の1以上)と言われています。


これは、私たちにインパクトを与える統計ですね。私たちには、神さまはご自分に従順で、物分かりが良く、余分なことを口にせず、常に喜びに満ちている者を好まれるというイメージを私たちは持っていないでしょうか。クリスチャンは品行方正で、怒らず、手を出さず、口も出さない。もし、クリスチャンがこのような人でなければならないとしたら・・・この会堂には何人が残るでしょうか(冗談です)。


そういう意味で、この嘆きの詩篇は、私たちの神観や信仰者のモデル像に大きな影響を与えます。私たちは信仰者の姿をここから次のことを学びます。信仰者は嘆いていいこと。信仰者は「見捨てられた」と残念がっていいこと。信仰者は「どうして」とつぶやくし、特別に物分かりがよくなくてもいいこと。信仰者はいつも神さまが近くにいると感じていなくてもいいことが学べます。


この詩篇は音楽のしらべにのせて歌われ、覚えこまれました。それは頭で分かるというよりも、心で感じる部分が大きいということはないでしょうか。「神さま、どうしてですか。なぜですか」、「あなたは私がどうなってもいいと思っておられるのですか」、「主の最善なんて、私には信じられません」という嘆き、叫びは、頭で理解させられようとしても、決して納得しません。


この点で、私はよく失敗をします。妻が嘆く場面ではいつも「神さまは最善をなさるよ。私たちにはすべては分からないよ。私たちの思い通りにならなければ、神さまじゃないの?」と畳みかけるように言ってしまいます。それは彼女にとって納得にも慰めにもなりません。


その意味で、嘆きをもって主の前に出ることの意味をこの詩篇から教えられます。主は、私たち人間が戸惑ったり、迷ったり、ろうばいする姿と習性をよくご存知です。私たちが、状況から神の意図が分からなかったり、即座に感謝することができなかったとしても、変に取り繕ったり、隠したり、見せないようにしたり、虚勢を張らなくてもよいのですね。時には泣きじゃくって涙を流すことがあり、時には人生の諸問題に絶望し、立ちすくむことがあり、時には声に出して賛美したり祈ったりするのでさえ、難しいことがあります。しかし、そのような礼拝者を主は蔑まれず、むしろ親しく交わってくださいます。


2. 主に叫ぶ

「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか」は始まりにすぎません。本当に見捨てられたと思っていたら、この1節でこの詩篇は終わっていたことでしょう。信仰の優等生ではなく、むしろ不信仰にも思えるようなうめきからスタートし、続きます。

「わが神 昼に私はあなたを呼びます。しかし あなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません」(2節)


ここから分かることは、祈りとはとってもしつこく、しぶといということです。「神に見捨てられた」と感じたら、もう祈ることも叫ぶことも無意味に思えてきます。一度賛美をやめたり、また信仰が復活するまで祈らなかったりするのが普通なのかもしれません。しかし、ダビデは見捨てられたと嘆いてから、一日中主に向かっています。


嘆きは、それがしかるべき相手に向かう時、適切な行為となります。たとえば、人間相手にばかり嘆いていると、互いの関係がギスギスし、相手をうんざしさせるでしょう。それゆえ、私たちが嘆くときには最適な相手である必定があります。その相手が主なる神なのです。私たちが嘆きを主にぶつけることは、不信仰や失礼ではありません。むしろ、主にのみ信頼していることの表れです。


ダビデは昼に主の名を呼び、すぐにその答えがなくても、夜も祈り続け一日を過ごしました。それはダビデが、この嘆きは主にしかぶつけることができないことをよく知っていたからに他なりません。主とともに生きる者の姿がここにあります。嘆きが晴れるのが今ではないにしても、この方以外に行くところ、この方以外に呼び求める名、この方以外にぶつかっていく相手はいないという確信を、私たちもいただきましょう。


また、ダビデは主に対して嘆きっぱなしではありませんでした。時に子どものように訴え、時に指揮者のように賛美を喜び、時に気がふれたように悔い改め、時にピエロのように主を喜び踊りました。弾けるような人間味を持っていたダビデの姿に、私たちもならうところが多くあるように思います。


では、主に嘆いて何になるのでしょうか。嘆いて事態が良くなるわけではありません。主に対して嘆く意味は以下のように整理できます。まず、主に嘆くことで別の扉が開かれていきます。私たちが嘆かずに過ごすことは不可能に近いでしょう。人間誰もが嘆きを感じ、失望するからです。しかし、しっかりと嘆くことで別のことを考えたり、別の行動を取ることができるようになります。


たとえば友人に裏切られたとしたら、どうでしょう。嘆きを主にぶつけ、失望の日々の中で、「自分の敵を愛し(なさい)」(マタイ5:43)というみことばが心にとまるかもしれません。私たちは「愛する」ことを「相手に対し温かい感情を持つ」ことと同一視する傾向があります。しかし、ここでの「愛しなさい」とは、ある人に対して私たちがどう感じるかの問題ではなく、その人に何を行い、どのように愛を示すかのがポイントです。だから、主イエスは「愛する」という感情を持つようにではなく、「愛する」という行動をするように命じています。こうして私たちは主の前でしっかりと「嘆き」、主にあって「愛する」という行動ができるようになります。


私たちが主に嘆くことは、内側に嘆きや悲しみを貯めこみすぎたり、必要以上に落ち込んだりしないように助けてくれます。ですから、私たちは主に対して正直な感情を出して嘆いてよいし、すべてのことを顔にも口にも出さないという優等生の仮面をかぶらなくてもよいのです。


むしろ、いかに嘆きに満ちた感情を抱えたとしても、それ自体はさほど問題になりません。その先、神の知恵にお任せすればよいからです。そう考えると、嘆きの詩篇を多く書いたダビデが、いかに神と親しく交わり、そのままの自分をありったけ神に向けたのか、それがいかにすぐれて誠実な礼拝であったのかがわかります。


3. 望み続ける

ただし、嘆くばかりではアンバランスです。それで3節からはガラッと内容が変わります。

「けれども あなたは聖なる方 御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です」(22:3)


この「けれども」は主に向かって嘆いている者だけが思いつくことのできる「けれども」です。嘆きやつぶやき、涙や不平だけで終わってしまうのではありません。神に見捨てられたように感じ、沈むときにも、同時に主なる神は賛美の対象であり、唯一の望みであられるからです。


新改訳の以前の版では「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」と訳されていました(いずれの訳も可能というのが定説です)。主なる神は私たちの嘆きを受け止め、賛美を受け入れてくださるお方です。私たちのぐちゃぐちゃな気持ちに引きずられることなく聖であられ、私たちが主をたたえればそこにともにいてくださる素晴らしいお方です。常に聖く、悪に振り回されず、御座におられるお方のゆえに、私たちは神を賛美するのです。


そして、嘆きとバランスが取れるのは信頼です。

「あなたに 私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼し・・・あなたに信頼し・・・」(22:4,5)

私たちは自分に都合の良い神、自分の願いを聞き入れてくれる神を求めがちですが、もっと大事なことは信頼できる神を求めるということです。

信頼関係は、話をちゃんと聞いてくれるかどうかが大事なバロメーターです。話を途中でさえぎったり、つまらなさそうに時計を見たり、耳をふさがられたり、理由をつけてその場を立ち去ったりされるとその人を信頼するのはとても難しくなります。


私たちは神を信頼できるでしょうか。この神は、あなたの嘆きを聞き続けてくださるお方です。「見捨てられた!」と嘆いても、それをちゃんと聞いてくださるお方です。そして、あなたの賛美も受けてくださいます。なんと大きなお方でしょうか。どれだけ嘆いたとしても、あなたが賛美をもって神に近づくことを待っていてくださるお方です。そして、あなたの賛美の中にともにいてくださるお方です。やはり、このお方なしには生きていけそうにありません!


結びに、この詩篇22篇はイエス・キリストが十字架の上で叫ばれた言葉でもありました。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)

神に見捨てられた嘆き、苦しみ。それは地上の生活のみならず、究極的には永遠のいのちを得るか、失うかの局面で突き付けられるものです。

神は本当にあなたを見捨てるお方なのでしょうか。

神はあなたが苦しむのを何とも思っておられないでしょうか。神はあなたの嘆きを聞き流しておられるのでしょうか。いいえ、決してそんなことはありません。実に見捨てられたのはイエス・キリストでした。背中の肉がそがれ、身体中がちぎれるような熱さ、痛みの中、この言葉を叫ばれたのはイエス・キリストでした。弟子に裏切られ、人々にののしられ、つばをかけられ、あざけられ、すべてのプライドも実績も奪われたのはイエス・キリストでした。


だから、私たちには絶望して生きる道には引きずられません。すでにイエス・キリストが苦い杯をすべて飲み干してくださいました。私たちは嘆いておしまいの人生を歩む必要はありません。すでにイエス・キリストがこの嘆きを叫び、本当の絶望を受け、本当の絶望を終わらせてくださったからです。


私たちもこの神の家族とともに、生涯、主に向かって歩み続けます。今週もその旅路が始まります。


「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」(ヨハネ14:31)


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