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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「ただ、おことばを」

聖書 ルカ7:1-11


1. 百人隊長の姿勢


今日からアドベント(クリスマスへ向けての教会暦)、そして聖書はルカ7章に入ります。それまでのルカ6章の平地の説教の締めくくりは、岩=神のことばの上に、家=人生を建て上げることでした。今朝の個所はそれにつながっています。つまり、岩の上に建てる人生とは具体的にどのような生き方なのか、ということです。

ここで登場する百人隊長(centurion)は新約聖書で覚えのある存在かもしれません。ここのほか、十字架を目の前で見ていた場面や使徒10章のコルネリウス、パウロの裁判などで出てきます。前のスライドを見ていただくと、百人隊長はあるカード会社のモデルになっています。聖書から由来しているわけではないと思いますが、守る、信頼、尊敬の証しとしてこのキャラクターが使われているそうです。

百人隊長には文字通り百人の部下(兵士)がいました。彼らを取りまとめるためにはたぐいまれな能力と人格が必要です。今朝の個所で、この隊長は自分や家族のためではなく「(一人の)しもべ」の病気のために動きました。まるで「99匹の羊といなくなった1匹の羊」のたとえ話のモデルのような人物です。彼は隊長として高圧的な態度ではなく、羊飼いのように気配りをする人物でした。そして、周囲の多くの人がこの百人隊長に協力をしていることからも、彼が非常な人格者であることがわかります。

彼は自分の町カぺナウムに主イエスが来られると聞き、「ユダヤ人の長老たち」(3節)を送ることにしました。百人隊長はローマ市民であり、ローマ皇帝の勅令を受けて配属されたエリート軍人です。ローマ帝国の中でもユダヤの地を治めるのはとても難しい仕事でした。小さな国土で、歴史的に多くの民族による争いや戦いがありました(旧約時代、中間時代)。5節で、遣わされた長老たちが「私たちの国民(ユダヤ人)を愛し、私たちのために会堂を建ててくれました」と言っています。彼はイスラエルの国を軍事力ではなく、愛をもって治める知恵深い隊長でした。百人隊長は力で押さえつけ、黙らせる方法ではなく、ユダヤ人たちを愛し、彼らの益となることを実践して国を治めました。そして、ユダヤ人の長老たちが、隊長の願いのために主イエスにお願いをしに行くほどの信頼を得ていたのです(通常、ユダヤの教師たちと主イエスは敵対関係になることが多いにもかかわらず)。

長老たちは「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です」(4節)と言っています。そうすることで、主イエスに助けてもらえると考えたからです。はたして、神に助けてもらう資格のある人とその資格がない人とに分けることができるのでしょうか。主イエスも救われる資格のある人とそうではない人とを分けておられるのでしょうか。もし、資格の有無によって助ける、助けないが決まるとしたら・・・資格を取るまで頑張るしかありません!

しかし、この出来事は次の展開に移ります。主イエスは彼らといっしょに百人隊長の家(屋敷)に向かわれますが、その途中で今度は隊長の友人たちがやって来て「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません・・・私のようなものの家の屋根の下にお入れする資格はありません」(6節)と言ったのです。百人隊長は、自分には直してもらう資格も、来てもらう資格も、家に入れる資格もありませんと伝えたのです。そのことを伝えるために、彼は友人たちを使いに出しました。彼自身が行かないのは、自分には会う資格もありませんと徹底して身を低くしたからです。おそらく最初の長老たちは彼らの考えで百人隊長には資格があるから来て癒やしてくださいと頼み、次の友人たちは百人隊長自身の考えを率直に伝えるために使いに出しました。

地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てる人とは、この百人隊長のような人だとわかります。地位におごってふんぞり返らず、人に横柄な態度を取って人の上に立たず、国籍で人を差別して軽べつしない人。やってもらって当然、自分にはその資格があると主張しない人。むしろその反対に、1/100の家来の異変や困りごとに気づき動く人、自分を低くする人。そして、主イエスのもとに課題をさらけ出し、解決を求める人です。主イエスに求めるのに、資格は必要ありません。必要なのは主イエスへの熱心さと主に拠り頼む謙虚さだけです。


2. 権威


百人隊長が求めたことが一つだけありました。それは「ただ、おことばを下さい」(7節)です。百人隊長は来ることでも、さわってもらうことでもなく、ただ「ことば」を求めました。しかも、ここは単数形なので「ひとことだけください!それで十分です」という簡潔/単純な信仰告白です。これを聞いた主イエスは驚いて言われました。「わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません」(9節)。わざわざ振り向いて言われえたので、このことをついて来ていた人々に言いたかったのですね。「イスラエルのうちでも」というのは、この百人隊長がローマ市民(異邦人)であったからです。出エジプトを経験し、神の律法を授かり、暗唱して教え、守り行っているイスラエルのうちにも見られない信仰。

実は、嵐も恐れない主イエスがたった二つだけ驚かれることがあります。それは「信仰」と「不信仰」です。主イエスが故郷であるガリラヤのナザレで宣教されたとき、人々はイエスをただの人間だとしか思わなかったので「イエスは彼らの不信仰に驚かれ」(マルコ6:6)ました。そして、そこで何一つとして力あるわざを行うことができませんでした。信仰のないところに、神は働かれないからです。いえ、もっと正確に言うならば、信仰がなければ、神は働くことができない!!のです(参照へブル11:6)。こうして、主イエスは信仰と不信仰に驚かれます。

その驚くべき信仰をもう一度おさらいしましょう。それは百人隊長が「ただ、おことばを」求めたからです。彼がそのように言えたのは、主イエスの権威を知っていたからです。主イエスが驚かれたのは、彼がことばという必要最低限のことだけを求めたからではありません。彼が来ることも、さわってもらうことも求めず、ことばだけを求めたのは、それだけで主イエスの力は十分に届くことを信じていたからです。この病は、主イエスのことばだけで癒されると信じ、実際にそのようにしたからです。2節を見ると、百人隊長が大事にしていたそのしもべは「病気で死にかけていた」という望みのない状況でした。そんな状況に対しても、主イエスのことばは力を発揮し、打ち勝つことを信じました。

ここに、私たちへのチャレンジがあります。自分の抱えている課題を解決するにはどうしたらよいでしょうか。一番初めに何に解決を求めるでしょうか。その課題に絶対必要なのは何だと考えるでしょうか。こういう人がいてくれたら、このくらいお金があったら、あと何歳若かったらと人やお金や時間のことを考えるかもしれません。あるいはなんでこうなってしまったんだろう、誰も助けてくれない、もうどうなってもいいと後悔やつぶやきが心を支配するかもしれません。主イエスなしで生きることは大変ですね!いつも自分の知っている可能性、自分の持っているものに頼るしかありません。

百人隊長が、自分の持っているものだけ、知っていることだけでこのことに対処していたらどうなっていたでしょう。隊長なので、最高の医療チームを集めて彼の部下を直すように命令することもできました。隊長なので、あまり悪い状況を広めたくなくて自分だけで静かに看取ってかっこよくすることもできました。しかし、彼は自分の力、知識、持っているものでやろうとしませんでした。もし、そうしていたら失敗していたでしょう。彼の持っているものすべてを集めても、この課題を克服することはできません。なぜなら、主イエスの力で対処していないからです。主イエスを

百人隊長が主イエスに求めるためには、彼自身の力を捨てる必要がありました。百人隊長はたくさんの権威を持っていました。それは8節を見るとよくわかります。「行け」と言えば行く兵士がおり、それとは別に「来い」と言えば来る兵士がおり、また「これをしろ(何でも!)」と言えばその通りにするしもべ(奴隷)がいました。彼には自由に動かすことのできる百人の兵士、それ以上のしもべたちを放棄して、主イエスに求めました。もし、主イエス以外にすべての方法を試していたら、たくさんの時間が経過して、死にそうなしもべは助からなかったかもしれません。百人隊長は主イエスが来られると聞いて、すぐに行動しました。課題に対する一番の近道は、自分にあるものを捨て、すぐに主イエスに向かうことです。


3. 主イエスをほめよう!


最後に、このあとどうなったかを見ましょう。「使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた」(10節)。しもべは癒されていました。そして面白いことに「ただ、おことばをください」という頼みには答えておられないのです!来るのでも、さわるのでもなく、ことばだけ・・・と求めた百人隊長の信仰に驚かれ、賞賛された主イエスですが、「おことば」をプレゼントするのを忘れてしまったのでしょうか。

気になるので、ここでちょっとした裏技を使ってしまいましょう。それは、同じ出来事を記しているマタイの福音書を開くことです。マタイではこの最後の場面で「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」(マタイ9:13)と言っておられます。ちゃんと「おことば」を発しておられるのですねえ。しかし、よく注意してみると、マタイでは「直れ」「癒されよ」というおことばは言っておられません。たとえば、嵐の時には荒れる波風に向かって「だまれ。静まれ」と言われたのですが、ここではそのようなことを言われません。ただ「あなたの信じたとおりになるように」と告げておられます。つまり、重い病気のしもべの行方は、あなたの信じているようになると言われました。そして、マタイでもルカでも、このしもべは癒されています。共通しているのは、百人隊長が「主イエスなら、この病を癒やすことができる」と信じていたことです。

ここに、私たちへのチャレンジ、ヒントがあるのではないでしょうか。この場面で、主イエスから一番迫られているのはユダヤ人であり、弟子たちであり、いつも主について来ている人たちです。もっとも近くにいるあなたがたへのチャレンジだよ、このような信仰はイスラエルの中=あなたがたの中で見たことがありません!と言われているからです。これは、今聞いている私たちも同じです。主イエスは、あなたに熱い信仰を持ってもらいたいと願っておられます。主イエスは、あなたが信じ切るものであってほしいと願っています。家庭では、あなただけがクリスチャンであるかもしれません。親族の集まりでいつも肩身の狭い思いをしているかもしれません。冷ややかな目や嫌味を言われてしまうこともあるかもしれません。学校では友だちのなかに誰もクリスチャンがいなくて、コソコソっと食事前にお祈りして過ごしているかもしれません。そんなあなたに主イエスは振り向いて、迫るのです。

「あなたは、課題のある時何をまっさきに思い浮かべますか」、「苦境のとき、あなたの心の底にあるものは何ですか」、「あなたは、わたしに何ができると信じていますか」、「なんでもないとき、あなたはわたしを忘れてはいませんか」、「あなたは、この礼拝でどれだけ わたしを求めましたか」、「あなたの手で握りしめているものを手放しなさい。そして、わたしを迎え入れなさい」 さまざまな問いかけをされています。

最後に、スライドをご覧ください。これはあるブランドのロゴマークです。H>iは”He is greater than I”の略になっています。大文字でHe、小文字でiと綴り、その力の差を表しています。「主イエス(神)は私よりも偉大な方」となります。

この告白こそ、百人隊長が行動で示したことです。先週の午後に後藤先生が「人を褒めると、それはやがて二倍になって自分に返ってくる」と言っておられました。それを適用するなら、私たちが主イエスを賛美し、ほめたたえるたび、その倍の祝福をいただきます。私たちが自分の力や自分の身の回りのものに信頼するかわりりに、主イエスに頼るたびに、その二倍の力が与えられます。

私たちの賛美がこの礼拝式だけでなく、生活の全領域でするなら、主イエスはそのすべての領域において力あるわざをなしてくださいます。「あなたは、ここでもわたしを呼び求めるのか」、「あなたはこんな状況でもわたしに望みを置くのか」と驚いて、祝福してくださいます。主の祝福を勝ち取りましょう。


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