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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「信仰と希望と愛」

更新日:2022年9月21日


聖書箇所:第一コリント人への手紙13章8-13節

今朝で「愛の章」と呼ばれる第一コリント13章を結びまで見ていきます。今年の聖句13章13節に向かうのですが、やはり「信仰と希望と愛」を本日の説教題にいたしました。この3つの言葉の印象はどのようなものでしょうか。クリスチャンや教会に不可欠なもの、3大要素として自然と言葉にも出てくるものになっているかもしれません。ただし、今朝はなんとなくこれら3つを覚えておくのではなく、それぞれの内容についてよく探り、そうだったのか、これからそうすればよいのかという発見や新しい目当てが聴くお一人お一人に与えられたらとも願っています。


Ⅰ.信仰(8-13節)

1. 13章の結び

まず「愛は決して絶えることがありません」(8節)と書き出されるこの強さに着目しましょう。聖書においてただの否定だけでなく、それを強調するために「決して」が付けられています。それほどまでに「愛」に対する描写は深いものがあるのです。特に、何と比較してかと言うと、この文脈では「賜物(カリスマ)」に対する愛の確かさ、完全性、永遠性です。賜物は派手ですし、その人を引き立て、他者の役に立つ認められやすいものです。格別コリントの教会でもてはやされていたのは「預言」「異言」「知識」の賜物でした。しかし、これらは決して絶えるものではない=一時的であり、一部分であり、すたれ、止み、終わるものだと教えています。私たちが何かの流行に乗っかるのと似ています。 たとえば「マリトッツォ」「Niziu」「東京リベンジャーズ」「イカゲーム」「推し活」と聞いてピンと来る方はおられるでしょうか>これに反応できる方は多いかもしれません。これは昨年流行したものです。

それでは「タジン鍋」「食べるラー油」「モンスターハンター」「巻くだけダイエット」「レッグマジック」を覚えてる方はいますか>あるいはまだそれを持っている、今も夢中であるという方は・・・これらは2010年に流行したものになります。


さらに十年前の2000年にさかのぼると、「厚底ブーツ」「甘栗むいちゃいました」「iモード(ドコモ携帯)」「二千円札発行」等となり、今では姿かたちを見かけないもの、役に立たなくなったものもあります。


これが流行の勢いであり、力であり、また移り変わりの速さ、すたれるもののモデルということです。このコリントで言われている賜物(預言、異言、知識)もやがてすたれ、終わりが来るものであると言います。であれば、それらがすべてのようにごまかされてはならない、騙されてはならない、右へ左へと動かされてはならない、と8節で重ねて警告しています。一時的にしか役に立たないものは永遠に役立たないものだ、と言った人もいます。であれば、私たちは一時的なものをとっかえひっかえする慌ただしく不安定な生き方ではなく、永遠に役立つものに身を投じたいと願います。


賜物が一時的であるのに対し、「愛は決してすたれることがありません」と書き出されている点の魅力です。愛は、賜物と比較すると、愛はそこまでひけらかすものではないので、ある意味で地味です。賜物が人に認められやすい性質を持っているのに対して、愛はここぞというときに働くものなので普段は秘めているもの、奥ゆかしいくあるべきものなのかもしれません。愛は今もこれからも必ずずっと続いていくものなのです。しかも、単に愛という存在や言葉が永続するという意味ではもちろんなく、その「価値が永続する」という意味です。愛には変わらない価値があります。すべてのものは変動したり、すたれたり、終わりがあったりするのに、愛にはその危険性、可能性がありません。「はるかにまさる道」(12:31)と言われているのは、まさにこの点における愛の完全性のゆえです。そうしてこの道を脇目も振らず歩み続けるために、「幼子のことはやめました」(11節)、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが」(12節)後には完全に知るようになるのだという神からの宣告を受け止めるように書いています。


部分的なものよりも完全(すべて)なものを、幼子よりは大人のことを、ぼんやりと鏡に映るものよりも顔と顔を合わせて見ることを求めよ、と迫ります。それほど、賜物を求め、賜物にこだわって生きるのか、愛を求め、愛を知り、愛に生きるのかには雲泥の差、決定的な差があります。私たちは示されています「はるかにまさる道=愛」をひたすらに進みましょう。今朝、このみことばをともに、このように真剣に聞いていることが何よりの出発点です。


2. 神への信頼関係をむすぶために

8~11節はこの流れをつかむための説明ですので、後は13節の三つに移りましょう。はじめは「信仰」についてです。「信仰」と聞くととりわけ、私たち人間が神を信じることとイメージしますが、実はそうではありません。「信仰=信頼」とも言われますが、そのためにはまず神を知ることから始まり、神にも私たちを知っていただくことによって信頼することが出来ます。なぜなら、信頼とは「信頼関係(相互の問題)」だからです。


神との信頼関係を結ぶための第一歩は神を知ることです。神を知るためには、まず神がどのようなお方であるのかがわからなければなりません。神を信じるというのは、神が◯◯のお方であることを知り信じるということだからです。神は信じるけれども、どのような神なのかさっぱり分からないのであれば、それは信仰ではありません。ただやみくもに信じる、自分の中で強く思っているだけです。神を知ることは、神についての正しい知識を知り、それからその神に対してどのように考えるのか、という段取りが必要です。


神について知るためには、どうしたらよいでしょうか。ひたすら神について想像することでしょうか。TVを見たり、インターネットで検索することでしょうか。いいえ、違いますね。神について知るためには、まず神がご自身について知らせてくだされなければなりません。たとえば、神さまがいっさい口も心も開かず、黙っていたら何も知ることが出来ません。神を知るためには、神さまがご自身のことについて知らせてくださらなければならないのです。それを神さまはしてくださっていますか?はい、そうです。聖書を通して神はご自身について、またすべてのご計画について明かしてくださっています。これほど誠実な神は、他におられません。神さまの方から、私たちに歩み寄り、私たちに分かる言葉で、順序立てて、しかも一時的ではなく永遠に変更もさらず、間違いのないようにご自身のことを知らせてくださっています。それゆえ、聖書は私たちが神について知る大事な要素です。大切な宝になるわけです。


さらに、聖書は神の表面的な事柄やその存在の有無だけでなく、ご自身がどのようなお方であるのかという神のご性質、世界はどのように成り立ったのかという歴史、これからどうなっていくのか、死や終わりについての将来のご計画について、私たちが知るべきすべてのことを余すところなく記してくださっています。神さまが聖書においてこんなにも多くのことを、詳しく、重ねて知らせてくださっているのは、神さまが私たちに対して心を開いてくださっていることの証拠です。


たとえば、私(大塚)について、私の身長、体重、血液型を知っていても不十分です。そのことを私からみなさんに伝えて、「では、私を信用してください」と言っても無理です。なぜなら、それは表面的なことや情報、数値であって、私という人間がどのような人間なのか、何を考えているのか、どのように行動するのか、あなたに対してどのような気持ちを抱いているのかについては何も知ることができないからです。しかし、もし私が丁寧に自分について説明をし、しかもその人柄が善良であることが証明されたなら、みなさんは私を信用し始めてくださるかもしれません。


人間についてでさえそうであれば、ましてや神がご自身を明らかにしてくださり、しかも罪がなく最善を施し、無力ではなく権威と力があり、死んではなく生きておられる神であるならば、私たちは「このお方を信頼できる」「この神を信頼して生きていく」という決断に導いていただけます。まず初めに、神がご自身について教えてくだったこと(啓示といいます)、これによって私たちは神を知り、そのご性質や存在の確かさ、権威の高さ、そして何よりも愛の深さを知って、この方に信頼を寄せていくのです。これが「信仰」のあり方です。


私たちはだた好奇心や懐疑心をもって神に近づいてはなりません。それは失礼なことだからです。誰でも、自分に対して愛と敬意をもって接してくれることを求めます。自分が雑に扱われたり、ズケズケと礼を欠いた態度で問い詰められたら良い気はしません。神を知るにふさわしい態度、心をもって礼拝に臨みましょう。なぜなら、神は私たちよりも賢く、高貴で、上の権威をお持ちで、同じ人間どころか神であるお方にもかかわらず、私たちと本気で交わりを持ってくださるお方だからです。つまり、聖書には何が書いてあるのかと言うと、神がご自身の神の国に私たちを招待してくださることであり、ご自身の計画に私たちも加わるように求めてくださることであり、ご自身にいつでも頼って良いと励ましてくださるお方だからです。それは、私たちにとってこの上ない光栄なはずです。神を知るということは「人間の心に感激をもたらす」(J.I.パッカー)ものなのです。こうした感動をいつも忘れずに持っていたいと思うのです。また、そう感じられる礼拝、教会、説教、私たちの交わりでありたいと願っています。


「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである」(ホセア書6:6)


Ⅱ.希望

1. 現在と将来とをつなぐ希望

次に「希望」です。「信仰」が現在、神を信頼していることに対して「希望」は将来に向かって神に信頼することと整理することができます。神との信頼関係を結ぶと、聖書のことばが主イエスのことばとして聞けるようになり、それらを信じ、握って生きるように変えられます。それまでは流行を追いかけていたのが、みことばに静まることを知るようになり、それまで人の言葉に左右されていたのが、主の言葉を蓄えて少しずつ動じることから解放され、人から言われた言葉に夜の睡眠もさいなまれていたのが、主の言葉とその力に委ねられるように変えられるのです。


なぜ、このように変えられるのかと言うと、それは「主に希望を抱けるようになった」からです。実は、希望はこのずっと先にある灯りがあるから何とかそこまで行こうという種類のものではありません。ぼんやりとしているけれど希望の灯はなくならない・・・そういったものとは違うのです。希望とは「未来に対する神の確かさ」です。その確かさがあるからこそ、今を生きる力、今を支える土台となってくれるのが希望です。その反対は失望・絶望です。もうすべてのことがどうでもよくなって、今何をしたらよいのか分からない。希望がないので、今どうやって振る舞ったらよいのか分からない。正しい判断ができない。考えることさえもどうでもよくなってしまう・・・これはまさに「希望がない」状態です。希望がないからこそ、今もどうなってもよいと投げ出してしまいます。反対に、希望を抱けるようになると、今も腰を据えて過ごせるようになります。将来において神の確かさに信頼しているので、今をいい加減に過ごせなくなるからです。こうして、希望は将来と現在とをつないで、今を生きる力として働きます。


2. 天と地とをつなぐ希望

さらに希望は「天と地をつなぎ」ます。たとえば、私たちが失望してしまうとき、それは何によってなのか考えてみましょう。人生における疑問、苦しみ、肉体の病、経済的な不安、人間関係による消耗・・・どれも深刻な問題です。誰も、このような境遇から無縁の人はいません。イエスさまも「世にあっては苦難があります」(ヨハネ16:33)と言われました。クリスチャンは、一般的な人間としての苦難から自由ではありません。さらにはキリストの弟子であることの苦難もあるのですから、二重苦です。


しかし、私たちには希望があります。それは、神がすべてのことを統治しておられ、歴史を導いておられ、この地と宇宙全体を完成させるお方であるからです。


「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である」(ヨハネの黙示録1:17-18)


神は、この世界、宇宙を始めたお方であり、終わらせることのできる=完成に至らせるお方であるということです。死も悲しみも病も戦いも、疫病も主は終わらせることのできるお方である、ということです。毎週告白しています使徒信条にはよみがえったキリストについて「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」とあります。あれは、どういうことか。こういうことです。


イエス・キリストは今天におられます。肉体をまとった姿としては地上におられません。そこで、父なる神にとりなして私たちが悔い改めに進み、信仰に歩むように祈っておられます。さらに、キリストは今もすべてを統治しておられます!この「上にあるもの」(コロサイ3:1)を思う時、私たちには非常な力が注がれます。今、地上にイエスさまがおられないということは、イエスさまが天に確実におられることの証拠だからです。その確信が与えられ、支えられ、増すために、信じる者には聖霊が与えられています。


そして、地にいる私たちは、天におられる主イエスを信じているということになります。これ以上の慰め、驚愕の事実、希望は他にありません!私たちが主イエスを信じる、イエスさまと結び合わされる、一つにされているということは、それによってこの地と天とが結ばれているということだからです。私たちの信仰は天につながっています。この地で孤独に生きているのではない。イエスさまがともにおられ、何とそれは天と地をつないでくださっている。しかも、私たちの知恵や力によってではなく、神の熱心によって私たちを支えてくださっている。私たちの信仰がなくならないように、イエス様がとりなして祈ってくださっている。この事実こそが、私たちの心を燃やし、震わせ、身体を奮い立たせ、もっと主のために生きたい、もっと主の近くににじり寄りたいと思わせてくださるものです。私たちは、本当に幸せです。一時的ではない、永遠の希望をいただいているからです。なぜなら、この希望は地上と天上とをつなぐものだからです。これ以上に確かな将来、希望はありません。


それでも、以下のみことばを心に刻みましょう。もっと信仰を、もっと希望を、もっと神のそばに向かいたいと願います。


「・・・人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:8)


Ⅲ. 愛

1. もっともすぐれたもの&決して絶えることがない

今日はここまで結構なボリュームで進行してまいりましたが、どんな神知識も、希望も、それだけでは不十分です。「これら三つです」と言われているゆえんを逃すことになるからです。結びの「愛」は「その中で一番すぐれているもの」(13節)と説明されています。これは結局愛が一番すぐれているから、愛だけ追求すればよいのだということではありません。なぜなら、知識に基づかない愛は暴走します。希望のない愛は長続きしません。あくまで「信仰と希望と愛」の三つが重要であり、いずれが欠けてもなりません。どれかが突出して多いとか、少ないとかあっても困ります。それでも、愛が一番すぐれていると言われているのは、愛は決して絶えず、すたれず(原意は「落ちることがない」)、永続し、永遠に立つものだからです。私たちと神との関係でもっとも大切なのは愛だからです。それによって一部分のものが完全なものとされ、ぼんやりと鏡を見ていたものが、顔と顔を合わせて直接見るようになり、完全に神を知るようになるからです。それなので、今日はアガペーの愛で愛してくださった神を、私たちが信頼し、希望を抱き、愛するというポイントだけで話しています。


神を知ること=神を愛していることではありません。相手を知っても、情熱を傾けないことだってあるからです。知識だけあっても、愛情において冷めていることだってあるからです。まさに、私たちが神を知るだけでなく、神を愛するようになること。これが聖書の目的であり、礼拝でいただく力でありたいのですし、そうあるべきなのです。福岡めぐみ教会の礼拝に集って、神をより知った。これは喜ぶべきことです。しかし、その限りではない。福岡めぐみ教会に集って、神を愛するようになる。神を愛するとは、もっと神に近づき、神のことを思い、神のために時間を費やし、神に喜んで駆け寄り、鼻歌で讃美を歌い、自然体で祈るようになり、また次の礼拝が待ち遠しくなり、神の国の到来を信じてやまなくなり、それを想像すると嬉しくなり、喜びにあふれることです。


2. 神を愛する者に

神を愛する者の特徴として、その人は神の偉大さを知っています。神の偉大な力を知り、祈ります。その人は、神のために非常な大胆さを時に表明します。その人は神の内に非常な満足と平安を得ています。学者の方が知識はあるかもしれません。正しい神知識があるかもしれません。それでも、その人以上に主の近くにいて、歩むことができる。これが愛の表れです。知ってはいても疎遠な人と親しく過ごすことはできません。私たちはより神に近く、神と親しく、神とともにあって、神を知り、確かな希望をいだき、神を愛する者として、生涯をまっとうしたく願います。これは永遠に価値が続くものですので、決して裏切られることがありません。


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