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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「何度でも」

更新日:2022年9月21日


​聖書箇所:マタイの福音書26章69-75節


Ⅰ.いっしょにいたのに

1. 受難週に

教会の暦は「受難週」を過ごしています。1年を教会暦で大きく2つに分けられ、主の半年(キリストの降誕、生涯、十字架と復活)と教会の半年(聖霊降臨以後)とに分けられます。教会暦を意識すると、いつも見ているカレンダーとは別に、主を意識して過ごし、歩むことができます。特に今週の受難週はキリストの地上最期の一週間。それぞれの罪を告白し、その重荷のゆえに十字架を背負われた主イエス・キリストを深く覚える週といたしましょう。 私たちはとにかく困難やトラブルを避けたいものです。自分の身に降りかかるものはもちろんのこと、それが他人事であればわざわざ間に入ったり、当事者のように担うようなことはしません。無関心や平静を装ってやり過ごすことの方を選びます。なぜなら、他者と、それも他者の抱える問題にかかわることは面倒だからです。受難週、キリストは自らのものではない重荷、問題、罪を背負って歩まれます。それはこの方こそ、私の救い主。この方なくして私の救いはなし、ということが分かり、告白するためです。ともにこの救い主を礼拝いたしましょう。


2. 弟子とは(従う者)

今朝朗読した箇所は、イエスさまが捕らえられ、裁判にかけられる場面です。それまでイエスさまに付き従っていた「弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった」(マタイ26:56)ので、このときは誰もそばにいませんでした。ただ、ペテロだけは遠くから様子を伺っています。「ペテロは外の中庭に座っていた」(26:69)。気にはなるけれど、近くにはいけない。自分がイエスの弟子だとバレてしまったら、きっと一緒に裁判にかけられ危ない目にあう・・・十字架を背負われるイエスさまとは正反対の心構え、行動をしています。そして、これが私たちの現実であり、限界です。この場面を見ていない他の弟子よりもましかもしれない、けれどペテロ自身も身を震わせながら、できることなら見つかりたくないと思って自分の身を守ろうとしている。弟子は主であり、師である方につき従う者です。自分の状況や考え、教育や気分や体調にかかわらず、主がせよということをする者が弟子です。


そんな彼に今、一番聞かれたくない声が届きました。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね」(26:69)。「イエスと一緒にいた」ということがバレてしまっています。それはペテロにとって非常にヤバい状況です。そのためすぐに「何を言っているのか、私には分からない」と打ち消します。しかも「皆の前で」とあるように、誰か一人でも同意を求めて、味方につけようと必死にあがいています。それから知られない間にそそくさと退廷しようと入り口まで出ていくと、また「この人はナザレ人イエスと一緒にいました」(26:71)と二度目は疑問形ではない形で突きつけられてしまいました。それで今度は誓って「そんな人は知らない」と突っぱねます。再びの否定です。単なる質問への否定回答ではなく、イエスさまを退けた、イエスさまを拒否したという意味です。これは弟子のすることとは正反対です。受難週はイエスさまが十字架に向かわれるその足跡をたどるものでもあります。けれども、聖書に記されているのは、その道から離れて、反対方向へと向かう弟子の姿です。ペテロは遠巻きに、退きつつ、イエスさまと自分とは関係がないと誓っています。それがペテロの立ち位置です。


みなさん、いえ、あなたは今どこにいるでしょうか。どこから十字架を見つめているでしょうか。どんな距離でイエスさまを見ているのでしょうか。イエスさまは、損得勘定や他人に関わりたくない、面倒くさいという姿勢を一切取らず、十字架へと向かわれています。この方を主とし、師とするのであれば、私たちも一歩、また一歩とイエスさまに近づいていきたいと願います。


Ⅱ.みことばの働き

1. 3度目の否定

ペテロの否定もむなしく、また「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる(直訳:あなたの話し方が、何者であるかをはっきりさせている)」(26:73)とにじり寄られます。すると、ペテロは「嘘ならのろわれてもよと誓い始め、「そんな人は知らない」」(26:74)と言ってしまいました。すると、すぐ鶏が鳴きます。これは事前にイエスさまが預言されていたことでした(26:34)。これで3度目です。さて、ひとつここで考えてみたいことがあります。このときペテロに向けられた3回の質問ですが、その時間はどのくらいだったでしょうか。ここを読むと立て続けに「イエスの仲間だ」と聞かれているように読めますね。1分?3分?10分くらい?


実は、この二度目と三度目には「一時間ほど」(ルカ22:59)あったことが分かります。これはどういうことかと言うと、ペテロは勢いに押されて三度否定してしまったのではない、とういことです。一度目は「言ってしまった」と思ったかもしれません。二度目にも「しまった。また言ってしまった」と思ったかもしれません。けれども、その間に一時間あったということは、「次はちゃんと言おう」「弱い自分を克服できますように」と祈ったかもしれません。そういうチャンス、時間はたっぷりとあったはずです。それでも、三度目には「嘘ならのろわれてもよい」とさらに強い語気で誓って知らないと言ってしまった。これは口が滑った、勢いに飲まれたのではなく、明確にペテロの叫びだったわけです。


そして、このことはペテロの弱さを教える箇所ではありません。私たち、そしてあなた自身がどれほどもろいのかを教えています。「神を信じる」「信仰を持つ」という意味において、ペテロや私たち、あなたという人間の意思や考え、決意がどれほど頼りないのか、もろいのかを教えています。そういう土台の上に信仰を築き上げようとすると、こうした場面でガラガラと音を立てて崩れてしまいます。では、どのようにして私たちは信仰を持てばよいのでしょうか。次の節にヒントがあります。


2. みことばを思い出したペテロ

3度否定したペテロは「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた(26:75)とあります。三度イエスさまを否定し、打ち消したペテロに迫ってきたのは「イエスのことば=みことば」でした。最近は「刺さる」「グサグサ来る」と表現することもあります。このときのペテロには、好きなみことば!というよりも、自分に向けられたみことばが、剣のように刺さり、自分のもろさ、そして主の確かさを思い出させたのです。そして、堰を切ったように泣き始めました。

私たちも、こうして礼拝に集って聖書を読む、聴くとき、このような働きを主はなさっています。すなわち、私たちの内側にあるものが何なのか、あなたのうちに主を否定する、遠ざけている事柄はないだろうか、忘れているみことばの警告がないだろうか、立ち位置はどこなのだろうかと探るのも、みことばの働きです(※参照:ヘブル4:12)。みことばと向き合うという大事な作業を大切にしたいと願います。それが自分の身の丈を知り、主を知る確かな方法だからです。


並行箇所のルカでは、このとき「主は振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:61)とあります。主は、あなたを見つめておられます。この視線を感じながら、本日の最後のまとめに入りたいと思います。


Ⅲ.信仰の土台

1. 起点

イエスさまを三度否定したペテロですが、この直前でも三度イエスさまの命令に背いています。それがゲツセマネでの祈りでした。主イエスがペテロとゼベダイの子ヤコブとヨハネを連れて祈りに行かれたとき、いっしょに目を覚ましているように言われました。けれども、彼らは三度とも起きていることができず、眠ってしまいました。「霊は燃えていても、肉体は弱いのです」(マタイ26:41)の言われる通りの出来事でした。


こうしてみると、私たちの信仰の始まりは、私たちの失敗から始まることが分かります。「聖書の言う通りにできているからクリスチャンである」とか「他の人よりも努力して立派だから一人前の信仰者だ」とか「聖書が分かり、全部できるようになったら信じます」というものではまったくない、ということです。


それよりも、「自分は聖書の言っているようにはできないなあ」「この否定したペテロは自分と同じだ」「こんな風にイエスさまに見つめられたら、堂々としている自信がないなあ」「自分の全部を知られたら困る」といったところからが信仰の始まりだからです。


2. キリストの愛

では、なぜ信仰は失敗から始まるのでしょうか。それは信仰の土台が自分の知識や力にならないためです。あなたがどれだけ強くキリストを信じるかということが信仰の土台や始まり、またクリスチャンとしてやっていける要素になってはいけないからです。そうではなく、信仰の土台=どうして信じられるのかというのは、主イエスがあなたを愛しておられるから始まるものだからです。しかも、正しい、頑張っている、強いあなたではなく、逃げてしまう、隠れてしまう、自信がない、うまく答えられないあなたを、それでも愛しておられるのが主イエスだからです。ここから信仰が始まるとき、私たちは嬉しくなります。嫌われるかもしれない、失格かもしれないという不安がなくなります。なぜなら、それでも愛してくださる神の愛に基礎を置いているからです。罪人の罪を背負って十字架へと向かわれたイエスさま。この方なら、私に失望することがないのです!そして、すでに主はそのことを成し遂げてくださいました。完全に初めから終わりまであなたを愛してくださっています。これから、あなたにどんな欠点や失敗、罪が見つかろうとも、キリストの愛はあなたから離れません。消えてなくなったりはしません。このキリストの愛の上に、私たちは立つのです。もはや自分の力、意思、思いではない。神の愛の上に、立つように招かれています。

ここから次、イエスさまとペテロが個人的に会話をするのは復活されてからです。ヨハネ21章15節から有名なやり取りがなされています。


「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛しています」と実に3度もお聞きになります。そのたびにペテロは「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。主語は「あなたがご存じです」という部分です。「私はあなたを愛します」「この人たちよりもりっぱに愛します」「なんでそんなことを聞くのですか」「また三度も同じことを聞いて嫌味ですか」という返答ではなかった。むしろ「心を痛めて・・・主よ、あなたはすべてをご存じです」(ヨハネ21:17)答えています。ペテロの裏切り、否定、言ったことができない・・・そうしたこともすべてご存じで、主は愛してくださっているのですよね。そのことを私は信じておりますと告白しているのです。


どうか、私たちの信仰が、あなたの信仰が、あなた自身の上ではなく、キリストの愛の上に始まり、立て上げられていきますように。それはいいところを見て愛してくださるのではなく、あなたのいっさいをご存じの上で、愛してくださる愛です。このことのゆえに、私たちは自分に失望せず、孤独ではなく、向けられた愛を受け止めていけるのです。ぜひ、ご一緒に告白しましょう。


「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅲヨハネ4:10)


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