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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「あなたの賜物を」

更新日:2022年9月21日


聖書箇所:第一コリント人への手紙12章4-7節

先週の礼拝で「私の主はイエスです」と告白できることこそ、私たちの信仰の基礎であることを学びました。すべては、初めから終わりまで「イエスは主です」と告白することの歩みです。これをいろんば場面、局面で私たちは問われるのです。順調なときには「イエスは主です」と讃美し、感謝する。時には鼻歌なんかをもって主をほめたたえる。しかし、逆境のときもまた「イエスは主」と信頼していく。そうして私たちの信仰は叩かれ、鍛え上げられ、磨かれ、高められていく。「苦しみにあう前には、私は迷い出ていました。しかし今は、あなたのみことばを守ります・・・苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」(詩篇119:67、71)という証しが生まれます。


なぜなら、そうした出来事を通して、より神に近づく者とされたからです。イエスを主と信じればすべてがうまくいきます・・・という道は聖書のどこにも約束されていません。もしそうであればクリスチャンだけは病にならず、事故にもあわず、仕事や家庭の苦しみを味わわず、朗らかに過ごして、自分の願いどおりの生涯を送ることになります。けれど、そうではありません。苦しみや試練、迫害や貧しさの中に、クリスチャンであっても身をおくことになります。それでも、私たちは「イエスは主」と告白し続ける。なぜなら、「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:13)とあるように、私たちが自分以外のもの、自分自身にすべてを賭けなくても良いという救いの恵みにあずかっているからです。イエスを主と言わなければならないのではなく(強制、縛り)、私たちがイエスを主として生きられる恵み(解放、救い)に気づき、大事にしたいのです。そこから始まって、今朝は「御霊の賜物」について進んでいます。私たちが「イエスは主」と告白し続けられるように、御霊はそれぞれに良きものを備えていてくださっています。


Ⅰ.賜物の方向

1. いろいろあっても

本日の箇所4~6節は聞いても見てもリズムが良いのがわかります。「賜物はいろいろ・・・奉仕はいろいろ・・・働きはいろいろ・・・」が書き出しになり、それを「同じ御霊・・・同じ主・・・同じ神」で受けています。


まずは「いろいろシリーズ」から見てまいります。この12章自体が「御霊の賜物について」ぜひ知っておくべきことという始まりでした。御霊なる神は、私たちに賜物を与えてくださるお方です。言葉の由来としては「恵み(カリス)」から「賜物(カリスマ)」となります。その賜物は「いろいろある」のです。聖書がこのように曖昧に、多くの意味を含ませて告げていることは本当に面白いですね。たとえば、私たちが悩んだ時「主よ、私の賜物は何ですか?」と叫んだとして、その時主は「いろいろある」とお答えになるようなことを想像してしまいます。けれども、ここでは「あなたの賜物は何なのか」「賜物に気づいて開発しよう」というのが主眼なのではありません。そのため、すぐに「与える方は御霊です」と続けます。それは「賜物は与えられるもの」だということが知っておいてほしいポイントだからです。


2. 賜物→奉仕→働き

では、賜物が与えられている目的は何でしょうか。それは「奉仕」のためであり、「働き」のためであるというのが4~6節の流れです。これは私たちにとって意外な道筋です。なぜなら、私たちは「賜物」という響き・恵みでさえも、自分のために使っているからです。あるいは妬みの対象にしてしまいます。けれども、聖書によれば、そのような賜物の理解はしません。賜物は奉仕、そして働きにつながっていていくのがその目的だからです。それが御霊の願っておられることでした。賜物は、己の誇りや楽しみのためでなく、奉仕=人に仕えるためでなければむなしいのです、くすんでしまうのです。めぐみ教会にもさまざまな奉仕があります。見えるところ、見えないところで奉仕をささげてくださっています。この礼拝、あの伝道、この会堂、あの窓、この椅子、このトイレ・・・すべてが「奉仕」によって成り立っています。これはすごいことです。どうしてそんなことが気持ちよくできるのでしょう。


それは「仕える相手は同じ主」だからです。人に対してするものであれば、必ず感謝が必要です。恩返しが必須です。あまり目立った奉仕ができない人、時間が取れない人にとっては息苦しくて窮屈です。そうするととても居心地が悪くなりますね。


しかし、私たちが「主に仕える」のであれば、それらにこだわらなくても、気持ちや心が守られます。私たちは人ではなく、主に仕えているのだからです。なぜなら、賜物は主が与えてくださったものなので、主のために使うものだからです。そのため、奉仕は文句を言いながらとか、嫌味を言いながらなんてすることはできません。もともと、その賜物や機会を与えてくださったのも主ご自身なのです。私たちが人間同士の摩擦に疲れ、心身がすり減ってしまわぬよう、人ではなく、主に仕えることを教えていただきましょう。


そうして「働き(エネルギーの語源)」は進んでいきます。私たちがささげる奉仕、小さな見えない奉仕であっても、それが空しくならないのは、主が用いてくださるからです。そのことをこの「働き」という言葉で表現しています。「神がすべての人の中で、すべての働きをなさる」とは大胆な宣言です。神の働かれない領域はない。神が届くことのできない人はおられない。実に、すべての人の中で、すべてのことを働かせてくださる。これは大変嬉しいことです。たとえ私たちの小さな奉仕、つたない祈りであっても、主はそれを用いて働いてくださいます。これでこそ、私たちの主です。


神の働きは、私たちの奉仕から始まります。あなたの奉仕から始まります。あなたが主の恵みに目を留めて、讃美するところから始まります。あなたの家の隠れた部屋の中の祈りから始まります。私たちはこの福音(良き知らせ)を知って、この心は、霊は喜びます。ぜひ、賜物を主にささげましょう。主が用いて、神の働きを進めてくださいます。


Ⅱ.比較と高ぶり

1. 比較からの解放

次に注意深く見ていきたいのは「同じ」という言葉です。始めは「いろいろ」と曖昧にしてきましたが、それを受けるものはすべて「同じ」と限定的、決定的、これしかないという言葉を持ってきています。「同じ御霊」「同じ主」「同じ神」。賜物はいろいろあっても与える方は「同じ御霊」です。そうすると、私たちは互いを見比べて文句を言ったり、いばったり、引け目を感じることは間違っていることが分かります。誰かの努力や功績で獲得したものではありません。賜物の本質は「他者の賜物を喜ぶこと」です。これが分かるとき、私たちはすべての比較、妬み、引け目、あの人とは住む世界が違うからなあという線引きから解放されます。歌、演劇、スポーツ、書道、料理、日曜大工・・・オリンピックでなくても私たちの身の回りには才能に長けている人がたくさんいます。それは、あなたがそのことを目の当たりにした時に、「その人に与えられている賜物を喜ぶ」ためです。さらに言えば、「その人にそのような賜物を与えられた主を讃美するため」です。


2. 高ぶりを遠ざける

賜物を与えられた方を喜ぶことは、同時に、それができる人にとっては高ぶりから守られることになります。


主が嫌われる私たちの性質とは何でしょうか? 主が忌み嫌われる私たちの罪とは何でしょうか?

 例:いたずら、悪口、盗み、サボりぐせ・・・

答えは「高ぶり」です。主は私たちの高ぶりを嫌われます。

「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ」(箴言16:18)、「神は高ぶる者に敵対し、へりくだった者には恵みを与える」(ヤコブ4:6)


神は高ぶる者には敵対されます。これは、高ぶる者の奉仕は悪臭となり、高ぶる者の祈りは聞かれず、高ぶる者は決して祝福されないということです。神に敵対することほど、人にとって恐ろしいことはありません。しかも、この高ぶりはわかりやすく高慢である者に限定されてはいません。高ぶりからくる罪は、エゴであり、ひそかな支配欲であり、うぬぼれ、怒り、いらだち、さばき、中傷、人の関心を引きたい、人からほめられたい、あの人から感謝の言葉がないのはけしからん・・・という実に多くの罪の実が生まれます。だから、私たちは高ぶることを気をつけるのではなく、高ぶりを遮るもの、高ぶりを妨げる思いから解放されなくてはなりません。その唯一の道は何でしょうか。それは「与える方」がおられる、「仕えるべき方」がおられる、「働きを祝福してくださる方」がおられるという神の真理にうなずくことです。自分ではなく、神が与え、働かれている。神を知り、正しく恐れるという知識の初めに至りましょう。


Ⅲ.皆の益のために

1. 全体のために

さて、今朝の最後7節は「御霊の現れが与えられている」とあります。この「現れ」とは「明らかになる」とか「(病気等の)症状、兆候」という意味です。賜物は、すでに御霊があなたに現れてくださっているしるし、臨んでくださっているしるし、御霊があなたとともにいるしるしです。それが実際に現れています。それが「皆の益となる」とき、最も美しい使われ方をします。それが本来の目的だからです。自分自身のためではなく、他者に対して当てつけるのでもなく、ただひたすら「皆の益(良いこと)」のために賜物を使いましょう。ただ、このように「皆の益となるため」と言われると、本当にそのようにできているか不安になります。「私はあなたの益になっていますか」と皆に聞いて回らなければならないとしたら・・・不安ですね。そんなとき、「主にだけ仕える」ことを思い出してください。私はこのことをもって「主に仕えよう」「主にささげよう」「主を喜ぼう」「主をほめたたえよう」と心に定めて奉仕するとき、それは「皆の益」にならなければならないというプレッシャーやおごりから解放されています。ただ、主にだけ仕えることを意識しましょう。それが、究極の皆の益になることだからです。なぜなら、私たちが主に賜物をささげて、主に仕えるとき、それを用いて主が働いてくださるからです。主イエスの言葉を刻みましょう。


「そこでイエスは言われた。「下がれ。サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」(マタイ4:10)


2. 互いを見つめて

最後に、私たちが主にのみ仕えることを徹底するとどうなるのか見て終わります。主にのみ仕えると、もちろん神さまのお名前が大きくなりますが、同時に「一人ひとり」が大切にされます。私たちがそれぞれ主の方に集中するとき、私たちは神のご性質を反映するようになるからです。神さまが、この奉仕をどのように受け取っておられるのか。その人の労苦を、尊さをちゃんと知っていてくださる。そうした性質を私たちができるようになります。主は「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25:21)と褒めてくださるお方です。また、主は「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、、それも最も小さな者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)とも褒めてくださるお方です。


主はどんな小さな奉仕も見ていてくださっています。主は私たちが忠実であること(世に名が知られなくても、人に気づかれなくても快く主にささげていること)を喜んでくださるお方です。またそれを実際の言葉に出して伝えてくださいます。


それゆえ、私たちも互いの奉仕をよく見て、感謝の言葉を伝えましょう。そこで主が崇められ、神の国の喜びと祝福が実現していきます。そんな福岡めぐみ教会であってほしいと主は願い、期待してくださっています。それには、あなたが必要です。主の恵みに感謝し、賜物をささげ、主に仕え、神に国の働きが前進するために用いていただきましょう。一人ひとりが主を見上げ、神の豊かな性質を互いに映し合いながら、歩みたいと願います。


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